天保14年(1843)

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天保14年18432月4日加州湊浦熊田屋八郎兵衛船、6人乗が大坂より繰綿76本、熨斗糸30個、玉砂糖12瓶、晒蝋3丸を積んで大坂出帆、20日立ケ浜入津、塩285を積み出帆、23日下関入津、27日腰ノ浜入津、3月3日能州福浦着、6日出帆、同日雪風にあう。7日明方より雪風激しく、8日朝水死4名を出す。七ツ時分(午後4時)飛島の御積島へ突込む。(飛島誌)
5月8日5月8日、9日、藩では溜池お茶屋へ郷在の孝子貞婦を召しお手元金を下される。(病間雑抄)
6月9日庄内藩に利根川分水路印旛沼疏鑿工事の手伝を命ぜられ、1400余人の人夫を出す。9月24日これをやめる。(荘内歴史年表)
6月9日印旛沼普請手伝につき本間家1万余両、酒田用金3千両、9月増用金3千700両を達せられる。
閏9月年寄格本間正七郎、三十六人衆の森与平・尾関又平・谷口九兵衛・根上善兵衛・渡辺久右衛門・田桑孫三郎・地主作右衛門らが家作の件につき倹約令にふれ、戸閉に処され、10月6日許される。
10月19日国学者鈴木重胤が秋田に平田篤胤を訪ねるため酒田の秋田町渡辺五兵衛宅にくる。そこに魯道が訪れ、帰路、再び来酒することを約束した。重胤は約束を守って来酒し重胤と庄内との関係がここに始まる。大山の酒屋大滝光憲宅に賢木舎を設け、国学を講じたり、著作に当る。庄内には重胤の書が多い。(荘内史年表・神習紀行)
10月城代、杉山弓之助が家老に転じ、里見但馬が城在番となる。
長岡転封令は水野越前守欠席のもとに撤回に決定されたが、その後、これを恨んだ水野越前守により迫害を受けた矢部駿河守は、不遇のうちに食を絶って自ら世を去った。後年、佐藤藤佐・白崎五右衛門等が、駿河守の刀を祭神として、蕨岡の大物忌神社に荘照稲荷社をたてて祀る。
酒造業と揚酒屋とを区分する。
この頃上台町に彫工、北風孫兵衛というものがおり、二代を東雲と号し、父子ともに彫刻に長ずる。(酒田港誌)
野菜類を、もやしものといって時候外に売出す不心得者が現れ、厳しく戒める。
出町の皇太神社が焼失する。(出羽国風土記)
天保年間に伝馬町の白崎五次郎(菱五)が池坊専明より羽州会頭職を命じられ、酒田華道会をつくる。