弘化元年(1844)

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弘化元年18441月橋本酒造業が創業する。(荘内経済年表)
2月庄内、由利2万7千余石の幕領地を再び庄内藩に預けられる。
3月藩士数十名が西浜で砲術演習を行う。光暉がその費用を献ずる。
3月前年10月晦日秋田に国学の先駆平田篤胤を訪ねた国学者鈴木重胤は、篤胤の没後五十日祭に会して留ること半歳、帰途庄内に立寄る。(荘内歴史年表)
4月異国船が飛島付近に現れる。
4月浦役人廃止の旨が達せられる。城米船難破の時は浦高札並びに浦触の通りにすべきことが達せられる。
4月大山騒動が起る。前々年大山村外72力村の公領地返還となったのに、15年再び酒井家預けとなり、御領百姓大山、加賀屋弥左衛門等が首謀となり酒井家の支配を脱しようとして酒井家非政の虚構をなし、4月書面を以て幕府に訴え出る。大山の口々の橋梁を撤し、竹矢来を結んで反抗の気勢を張る。藩では大山不穏の状況を幕府に上申し、7月首謀者を捕え、越後汐の町陣屋に於て糺問のうえ、永牢に処し、事件を鎮圧した。公領地はそのまま酒井家預りとなる。(荘内歴史年表)
8月24日僧魯道が新田目梵照寺で没する。54歳。魯道は漆曽根岡本氏の出、青原寺の金龍和尚に師事し、青原寺二十八世となり、のち梵照寺に移る。詩歌をたしなみ、本間光道・白崎一実等交友が汎く、鈴木重胤を庄内に紹介し、国学を広めた功績は大きい。漂泊の国学者服部菅雄に対してもまごころをもって接する。(酒田港誌)慶応2年8月「圓通魯道禅師塔碑」が新田目梵照寺境内にたてられる。一斎・佐藤坦撰・松雲真人猷書。
9月藩主忠発が糀(こうじ)山(田川街道川内山)で砲術の演習を行う。
宮内農協脇広場に「連璧碑」がたてられる。魯道壁観道人撰。
鶴岡出張の物頭を1ヵ月交代とする。
外国船警戒のため庄内藩では飛島に派兵する。(飛島誌)
渡辺五兵衛。豪商、代々秋田町西北角に住んで回船問屋を営み「渡五」と呼ばれる。この年3月国学者鈴木重胤が秋田へ赴いての帰途、酒田に立寄って「渡五」に泊ったが、これは「渡五」が重胤の養家橋本藤右衛門(神戸の豪商)の船宿であったことによる。
飛島勝浦村で35戸を焼失する。火事