弘化2年(1845)

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弘化2年18452月20日雪融水による洪水。蔵米3,000俵の濡損が出る。
3月定在番里見但馬が組頭に転じ、松平甚三郎が城代となる。
4月20日正后、淡路小路から出火して920戸を焼く。この火事で旅商人の商品200万両を焼いたと「今町菊地家覚書」に記されており、いかに多くの品物が移入されていたかがわかる。アマ鯛火事という。アマ鯛というあだ名の家の主人は気不足で、火遊びを好み、このため出火し、折からの東南風にあおられて、片町・上下内町・給人町・新町・上袋小路・稲荷小路・本町・山椒小路・御宿小路・利右衛門小路・染屋小路・秋田町・船場町・猟師町・台町を焼く。920戸のほか、土蔵191棟、米6,440俵、穀類700俵、十全堂・静照寺・運昌坊・鳳泉坊・御料・山形・新庄役所も燃える。本間家は七社の宮と長屋門は焼けたが本宅は焼けない。これ以後、明治27年の大震火災を除けば、昭和51年まで、これほどの大火はなかった。火事
7月7日山王堂町から出火して204戸を焼く。火事
12月問屋の名を廃して宿といわせる。
亀ケ崎士、阿部千萬太が出奔する。(阿部千萬太伝)
現在の鐙屋の家屋は弘化2年の大火後に建てられたもので、最近見つかった平面図によると、表口11間半(20.7メートル)奥行21間(38.7メートル)で、本町通りに面して建物が平入りに建てられており、京都風であることがわかる。道路に面した店は平入の2階建であり、明治になり、問屋をやめてからこの店をとりこわし、前庭とし、塀をたてたと思われる。
当町人馬出役村継を規定する。
宮海村に八尋位(約12メートル)の鯨があがる。(荘内史年表)