弘化4年(1847)

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弘化4年18474月高野浜湊口銭方役所は大浜川欠により、改め方が不充分になったため移転する。
湊口銭世話役に本間健治郎・同信十郎がなる。
5月四ッ興野の天満宮が再建される。別当圓光山無量院。天満宮は昔は雷神堂ともよばれ、東禅寺城の鎮守であったとも伝えられる。
8月城代酒井奥之助が家老に転じ、水野由岐が定在番となる。
近年浜中村付近から、魚船で米穀や茶種を加茂湊に密売するものがあり、厳禁される。(酒田町史年表稿)
海陸諸商売の品物を売りさばいているものは現金取引するよう達されているにもかかわらず、延買などする地商人がおり、厳重に達しられる。
軍学者、加藤昇三郎が赤川逆水を防ぐため、藩に黒森山開さくの意見書を上書する。
絵師小池曲江が没する。89歳。宝暦9年塩釜に生まれる。全国を歩き、絵の道に励む。56歳のとき、酒田を訪れ、長くこの地に滞在して多くの絵を描く。
この頃、今町に遊女屋27軒。今町・船場町・高野浜の全体では遊女801名、遊女あげ代500文。天保年間に出された「諸国遊所見立角力並ニ直段附」という番付によれば、酒田今町は東前頭七枚目になっている。