嘉永元年(1848)

年号選択
 
元号年月日事項文キーワード
嘉永元年18484月15日外国船が飛島沖に現れ、2、3発砲する。このため庄内藩から飛島へ出陣する。亀ケ崎家中足軽は吹浦を固める。
儒学者頼三樹三郎が越後を経て庄内に来遊する。当時24歳。
三樹三郎名は醇・鴨崖・吉狂生と号す。山陽の第三子。つねに遊歴を好み、致る所に碩学志士を訪ねる。幕府の専横を抑制し、皇政の回復を企画する。たまたま閣老間部のために、京の獄につながれること数力月、のち江戸に檻致され、安政6年10月7日、斬に處せられる(安政の大獄)。時に35歳。大塩平八郎のさらし首を画いたものに三樹三郎が賛を書いた掛物が光丘文庫にある。(酒田港誌)
砂止新御林の下草刈のことで、上藤塚村と宮海村とが大乱闘となり、負傷者が出る。(市史史料篇七・砂防林物語)
遊女を茶屋家業以外には指出さないこと、浜売家業の者が酒・餠・小肴・青物以外の沖出停止の品は積み出さないと、船場町茶屋36人・船場町浜売24人が請書を出す。(市史史料篇七)