嘉永2年(1849)

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嘉永2年18492月12日俳人竹内伊右衛門が没する。55歳。栄助・秀成・恒猷・梅亭・魯秀・芦舟。米屋町の素封家で質屋を営む。早くより美濃派俳諧に長じて宗匠となった。浄福寺に葬られる。
2月25日小花和輔太夫(松山に生まれ小花和家に婿入りしたがのち出家して虚無僧となる)が、西野新田村仙七茶屋で鵜渡川原足軽某と喧嘩となり斬り殺される。
4月定在番、水野由岐が免ぜられ、服部瀬兵衛が城代となる。
小浜出身の北前船の沖船頭川渡甚太夫が来酒する。彼は前年と翌3年にも来酒しており、酒田・敦賀間を往復していた。酒田の紅花仲間に加入しており、当時、紅花仲間があり、これに入らなければ紅花を積めなかったことがわかる。甚太夫の歌、
いく度も通ふ酒田の川湊 心残りは今町の姫 船方や女郎の勤のたのしみは のせていれねば金になるまい 何国より飛島かは知らねども 聞きしにまさる掛り場のよさ 勤めする身は色里の花の嫁 なさけでつなぐ船のともづな(北前船頭の幕末自叙伝)
5月山王祭の日に出火、新片町勘右衛門等22、3軒を焼失する。(市史史料篇七)火事
年貢米の川下げが激減したので、酒田宿船の家株存続を願ったところ、ようやく年貢米の半分は酒田下しとなる。
飛島に鯨が流れ寄る。長さ丸さ共十尋、入札となる。(市史史料篇二)