嘉永3年(1850)

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嘉永3年18501月丁離兵右衛門が失火し、15軒類焼する。翌日、足軽目付二人、同心二人からとり調べられる。(町民は徒目付の吟味)火事
5月3日寺町から出火し、17軒を焼失する。火事
6月東都三前社主中村徳水が来庄し、鶴岡・酒田の各所で心学を講ずる。酒田では上内匠町天満宮・下中町越前屋藤右衛門宅に宿る。白崎五右衛門・山田太右衛門・唐仁屋藤十郎・粕谷源吾等が傾倒する。安政2年3月再び来遊する。鶴岡5日町荒井和水は、徳水に随い、江戸に上り、さらに京都明倫社より都講の免許を得て、庄内各地を巡講する。鶴岡には心学講舎鶴鳴舎が設立される。安政3年、三度来庄する。このとき酒田では下内匠町蔦屋伝右衛門宅に宿る。
6月藩士加賀山治郎太夫が亀ヶ崎学校の創設をはかったが失敗する。
6月大洪水。この年大凶作。水害
9月19日町年寄、白崎五右衛門一実が没する。54歳。一実名は正・字は以直・文廼舎と号す。一恭の長子。幼時、青原寺の金龍和尚に托せられ、年十五にして米沢神保蘭室に学ぶ。その後、香川景樹の門に入って和歌を修め、さらに庭田重嗣に師事する。義に勇み善行が多い。藩主は禄を給い、鷹匠格に陞せて士班に列する。一実には子がないため、鐙谷惣右衛門の男一誠を養って嗣とする。(酒田港誌)
11月白崎一誡が養父の名をついで、五右衛門と称する。町年寄・火防惣世話役及び酒田湊取締方等の跡式を継いで、明治維新に至る。(酒田港誌)
伊藤四郎右衛門が由利郡の絵師永昌に画かせて奉納した“翁舞”の絵馬が、下日枝神社の拝殿に掲げられている。
教育者、長屋由郎が生まれる。没年不詳。美濃大垣の人。明治27年招かれて酒田の琢成小学校長となった。同31年5月酒田高等女学校が開設されると推されて同校の初代校長となる。
黒森に同村歌舞伎の古帳面が残っている。表紙には「嘉永二年酉5月老口口連中無尽」裏面には「妻道帳」とある。従って黒森歌舞伎は道祖神への奉納芝居だったことが知られる。
この頃、伊藤四郎右衛門の親類伊藤弥藤治順信が、天正寺町の自宅の一角にある米蔵の二階を改造し、剣道場を開く。少年時代の清河八郎も毎日のようにこの道場に通ったという。