嘉永4年(1851)

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嘉永4年18513月問屋組合再興令が出る。
3月一の瀬の水深7尺5寸(2.25メートル)、水戸1丈1寸(3.03メートル)位。(酒田港誌)
4月松平武右衛門が主任となり庄内の旧記取調べをすることになり領内に史料提供方を達する。このときの史料写しが「松平武右衛門叢書」として光丘文庫にある。(荘内歴史年表)
5月22日天正寺町の富豪市原平三郎(富之助)が没する。85歳。酒田に生まれ、繰綿を業としたが、のち太物屋を営んで成功し巨万の富を積む。安祥寺に葬られる。
6月23日本間国光が没する。58歳。豊蔵・信四郎・新四郎。富豪本間家の連枝本間光味の三男。米沢興譲館友于堂に学ぶ。家督を継ぎ本町二丁目角に住み、自宅に塾を開いて多くの子弟を教育した。
8月15日私塾教師山口五四郎が没する。禎・子敬・北溟。鵜渡川原村に生まれ、明古学を修めて詩文章に長ずる。性恭謙で博学多識、塾を開いて広く門人を教育し、地域に孝悌の道を広めた。広専寺に碑がある。
8月鈴木重胤が庄内にきて講学し、9月7日羽黒山に詣でる。吹浦の大物忌・月山の両社に詣でる。酒田では秋田町の廻船問屋渡辺五兵衛に至る。 今日清室俊明・大滝光賢・鈴木秀春三人を率いて、大山川より舟にて酒田に下る。江戸より具したる従者は足痛に依て止り、右の三人の従者を我が従者にも兼て出で立つ、申時ばかりに着く。渡辺五兵衛に至る、強いて止めたけれど明日の急ぎあれば宿に着く。田村清彦も鶴岡より船にて来り会いたり。十一日、清彦の従者ともに八人にて酒田を出で、吹浦なる大物忌・月山の両社に詣づ。高橋津右衛門にて昼の物したたむ、饗応に駅馬を出せりければ、心易くて秋田に至るの思あり。由利郡塩越なる越後屋善兵衛に宿る。(辛亥紀行・荘内歴史年表)
9月18日長崎俵物船、大坂さつま屋五郎兵衛船、沖船頭卯八、住若丸が箱館出帆、23日、難風に遇って、26日、飛島字縁之島浅瀬に乗上げる。長折こんぶ8,680束、上いそこんぶ4,130駄、吉苔こんぶ5,550駄のぬれものを干す。人足3,330人を要する。(飛島誌)
酒田京田船宿から、年貢米の酒田廻しが近年減少し、困窮していることを訴える文書が出される。
千日前の福善院を大日山福王寺と改名する。(市史史料篇七)
鵜渡川原に矢場ができる。