嘉永6年(1853)

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嘉永6年18532月2日酒田火事、52軒焼失する。(編年史記)火事
3月天保一揆の中心人物、佐藤藤佐が江戸で没する。74歳。遊佐升川の生まれ、子供に順天堂大学病院の創立者佐藤泰然と医師佐藤然僕がある。泰然の子には軍医総監松本順、外務大臣林董がいる。
5月松平舎人が城代となる。
6月1日釈癡仙が没する。72歳。癡仙は遊佐郷青塚願専寺六世の住職。名は恵源、号は雪堂、鳥海山人と称する。資性淡泊、奇行に富む。大坂に於て七弦琴の家元を継ぎ、最も大師流の書道に長ずる。(酒田港誌)
12月本間光暉が藩に大砲5台を献ずる。
本間家本家、本町二丁目現エビス屋薬局にあった本間久右衛門家が断絶しようとしたとき、由緒ある家柄なので、適当な養子をむかえて名門を続けさせたいという願いを三十六人衆より町奉行に出し、聞き届けられる。
佐竹弥右衛門が最上川の中瀬川で鮭を大猟し、寸志金200両を上納したことで、弥右衛門に御紋付上下一具、手先の落野目村作右衛門に三ッ組盃を下賜される。(野附文書)
鵜渡川原に銃隊稽古場をつくる。
忠恕が変死し、恭敬派が再び抬頭する。当時、藩内には恭敬派と放逸派が対立していた。
嘉永年中、最上川が氾濫すると新井田川に漲溢して、逆流が酒井新田・漆曽根等18力村の耕地を浸すため、藩の補助を仰ぎ、山居谷地に400間余の堤塘を築いたが、まもなく流される。
この頃、無株の者が蝋を買置き、郷中へ背負い売をするので厳しく取締ることが定められる。
試縄座を船場町河岸におく。(市史史料篇二)
虚無僧・六部等が止宿した場合、船場町御足軽目附宿に届け出るよう命じられる。(市史史料篇二)
嘉永の末頃、渡部佶郎が牛痘接種法を庄内に伝えたが、科学知識が少なかった頃で、これを嫌い、でたらめを言いふらし種痘を傷つけるものがあった。
絵師雲嶺謙雅・子蒙が吹浦村(現在の遊佐町地内)の菅原某の子として生まれる。のち酒田八軒町川端五十嵐染屋の養子となる。嘉永年間本町一丁目五十嵐仁左衛門の依頼をうけて「酒田十景」を描き、仁左衛門がこれを版木に彫って売出し好評を博した。山王祭礼図屏風や上山王社拝殿に掲額等が現存する。