安政2年(1855)

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安政2年18551月16日木彫師後藤三惣が没する。享和2年新堀村に生まれる。江戸に上り木彫りの技を学んで後藤正乗と称した。透し彫りを得意とし鶴岡に居住する。
1月歌人大信寺の室、新田勝行院が没する。89歳。勝行院は大信寺九世達空の室にして釈公巌の妹。和歌に長じ、学者の来往が絶えなかった。僧魯道・本間光道・白崎五右衛門一実等と交わる。
3月寺院の梵鐘を大砲に鋳替える。また新たに仏像をつくることを禁ずる。
4月亀ヶ崎家中はこれまで25人であったのを、10人増やし35人とする。(編年私記)
5月酒田総戸数2,207軒、人口9,594人。
6月外国船通行につき、酒田湊付近15ヵ所に砲台を築く。
7月西浜3ヵ所に砲台を新設し、海防に備える。
7月日向川の水害を除くため、遊佐郷大庄屋金野茂作らが自費で新川の開さく工事を始めたが失敗する。
10月2日夜、江戸大地震、庄内藩邸にも被害がある。(荘内歴史年表)地震
11月光暉は江戸大地震につき藩に酒田才覚金として4000両、品川砲台警備費に金1万両を提供し、さらに1800両を献納する。(市史史料篇五)
12月五十集(いさば)屋13人が台場築立につき、100両3ヵ年献上の旨を申し出る。
善宝寺の五百羅漢堂が落慶する。仏像は中国、龍眠の五百羅漢図を模したもの。北海道の人の寄附と伝えられる。(荘内歴史年表)
工芸品・竹籠などの竹あみ、または竹蔓細工は、この年の創始で、主に寺町でつくられる。
東講商人鑑」が刊行される。これによると鶴岡七日町の吉川屋喜兵衛が「酒田通用書状取次所」の看板を出し、酒田・鶴岡の飛脚業務を行なっている。
この年、時岡淳徳が江戸に出て伊藤鳳山のもとで医学および儒学を修め、酒田に帰り、上の山で医を開業する。のちに種痘を普及させるために力を尽した。長く酒田町医頭をつとめる。
漬物製造販売の「梨屋」が創業する。
公儀役人通行の時に駕籠舁が吹浦で不都合があったとして、人馬割の三十六人衆粕谷源吾等5名が慎しみとなる。(市史史料篇二)