安政3年(1856)

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安政3年18561月火事装束の華美を禁じ、頭巾は錣(しころ)1枚、紋所2つ、長さ2尺(60センチ)をかぎり、めだつ踏込を禁ずる。本間・池田家をはじめとする三十六人衆は、倹約令から除外されていた火事装束に、家紋を入れ、華美を尽していた。
2月大庄屋清水理右衛門が海岸防備のため十里塚から飯森山の間に松を植える。
6月海岸防備の持割を定める。
6月鶴岡から火難除けの鷲を譲り受ける。
7月17日飛火による火災で妙法寺のほか、台町4軒、高野浜20軒などを焼失する。火事
8月29日荒瀬郷24カ村より、西浜山日向川新川開削が願い出される。
渡り鼠がおびただしく、作物や草木の根を喰い尽す。秋気に至り、みな沢川に入り、流れ死ぬ。
酒田天狗一件がおこり、首謀者加藤拓治が追放される。
秋田大館浄応寺の十一世誉田無等は、この年と同5年及び、それ以前の3回にわたって来酒し、大信寺を本拠として玉川遠州流を大信寺耕月・森藤十郎・鐙屋惣右衛門・白崎五右衛門・須田文栄などに伝える。その後、藤井茂兵衛等を経て、本間光暉に伝承される。
千日堂の福王寺(不動尊)に残されている「寺子名前帳」をみると、付近の8歳から14歳までのこどもを教えており、総勢198名のうち、女の子はたった8名である。これによると農民・大工・豆腐屋等すべての職業のこどもが入っており、福王子以外の寺や修験寺院でも寺子屋を開いていたと思われ、教育が広くゆきわたっていたことが知られる。ほとんどのこどもに姓がついており、庶民がすでに姓を持っていたことがわかり、貴重な史料となっている。