安政4年(1857)

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安政4年18575月20日絵師佐藤梅宇が没する。生年不詳。荒瀬郷の大庄屋佐藤源内の子として生れる。谷文晃に師事して絵を学び梅宇と称した。島役人を命じられ飛島に渡り、「飛島図絵」「孝貞照鑑図絵絵巻」等を画く。
7月8日水戸の儒者、高橋克庵が来酒し、大信寺に宿り書を講ずる。名を騏一郎と称し、業を朝川善庵に受ける。北越を経て酒田に来遊し、荒町播磨屋に宿し、のち大信寺に移る。海晏寺での伊藤鳳山の講席に侍し、遂に門人の禮を執る。「大泉紀行」の著がある。
11月問屋頭三人は常時、川船差配人三人は公用の日だけの帯刀を許される。
12月23日医師宮本正敏が没する。75歳。太仲。庄内藩の右筆をつとめた兵学者牧一作の孫。多紀某について医学を学び、かたわら碩学東条一堂の門で漢学を修めた。青原寺および善導寺に葬られる。宮本家は相場師本間宗久の流れを汲み、宗久が残した再興資金によって袋町にたてられた。
12月米屋町の竹内伊右衛門らが医会所を再建する。
藤井対岳。(没年不詳)対岳は内町に生まれる。故あって加茂に住す。この頃高橋克庵と交遊し、南画を学んで見るべきものがあった。(酒田港誌)
西荒瀬村の水害除去と旧河川敷地の開拓事業を始める。工事監督、藩士萱野又兵衛。
町方諸商人に、商談が成立しても今後一切、振舞や賄いなどの本陣(宴会)を旅商人に要求しないよう固く戒める。
この頃画工葛城竹城、篆刻師林皐(りんこう)が酒田に滞在している。
庄内藩士田中与平が江戸からの帰途、越後で甘藷の栽培をみ、初めて浜中で試作する。庄内甘藷の始まりである。浜中正常院に寿碑がある。(荘内史年表)