元号年 | 年 | 月日 | 事項文 | キーワード |
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安政5年 | 1858 | 1月9日 | 遊佐郷・荒瀬郷の強い要望で、日向川新川の掘削に着手する。まもなく今野茂作等が日向川旧流域五十町余を開田し、茂作新田と称する。(出羽国風土記) | |
| | 正月23日 | 東本願寺講師徳龍が京都六條黌に寂す。87歳。徳龍はかつて公巌の「佛心印記」を聴講する。酒田に来遊し、浄福寺に24日講を組織し、安祥寺では大無量寿経の五悪段を講義する。龍温は徳龍の高弟である。 | |
| | 2月 | 外国船が宮野浦沖に現れる。 | |
| | 3月12日 | アメリカ人が上陸して商物を望めば与えてもよいが、代金などは一切受取っていけないとの御達が出される。 | |
| | 3月23日 | 米屋町竹内伊右衛門が猟師町に医会所をたて、落成式が行われる。竹内伊右衛門は種痘諸道具購入代金と医会所基金を寄附する。 | |
| | 3月27日 | ~28日医会所に鶴岡の御目見医板垣貞保を招請し、種痘を実施する。その後、毎月の7・17・27日に種痘を行う。 | |
| | 4月21日 | 箱館奉行支配組頭河津三郎太が酒田湊の形勢と、輸出入貨物を調べる。(酒田港誌) | 港 |
| | 5月 | 鍼医須田玄祐が没する。62歳。名医と称され、病者は彼の足音を聞いただけで直ったという。須田古龍の祖父。没後門人が墓碑を海晏寺にたてる。(上に同じ) | |
| | 7月7日 | 真嶋雄之助が没する。34歳。雄之助は遊佐郷大井村の大組頭佐藤治の倅。同郷の佐藤与之助政養・酒田出身の本間郡兵衛と交わる。勝安房の門に入って塾頭となる。庄内藩の江戸留守役辻五郎八に請われて、江戸芝口御台場普請の世話掛となる。藩ではその俊才を認め、禄七石二人扶持を給し士班に列する。病いを得て帰郷する。 | |
| | 7月 | 酒田で青物一件がおこる。新田目組泉新田で、丁離から人灰や獣肥を求めてつくった青物を酒田で売ったため、有毒であるとの風評がたち、騒ぎとなる。 | |
| | | 7月末より全国的にコレラが大流行し、当地でも多く死ぬ。(咄しの種瓢) | |
| | 8月23日 | 異国船が見えたら日和山より太鼓を打ち順次、知らせるよう三十六人衆に達せられる。 | |
| | 8月 | 三十六人衆が三ツ星の印を使用することを禁じられる。 | |
| | 9月 | 浮世絵師歌川広重が没する。62歳。酒田湊から鳥海山・月山・羽黒山等を望んだ綿絵を数種画く。 | |
| | | この年伊藤凰山(53歳)が帰郷して、浄福寺脇寺の徳念寺に塾を開いたところ、はじめは大勢の青少年がおしかけてきたが、次第に減っていき、まもなく塾をとじる。 | |
| | | この年から翌年にかけて、幕吏が出張して酒田の湊口を詳細に測量する。 | |
| | | 冬、小湊川の掘替に着手する。 | |
| | | 水戸の深さ一丈前後(1.82メートル)。(荘内経済年表) | |