安政6年(1859)

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安政6年18593月6日光暉が本間健吉光貞(山手の本間、鈔治の長男)に弐百石を分知、よって健吉は世禄三百石の騎馬席となる。(市史史料篇五)
3月米国船が酒田湊に寄湊し測量するとのしらせがあったが来湊しない。藩では異国船出現についてのお触れを出す。
4月27日箱館の露国領事館員乗船ジキット号が飛島の勝浦に寄湊し、館員三十余名が上陸して島内を視察する。このとき殺生禁断の霊場である賽の河原で海猫を鉄砲で撃ち、料理して食べたので島民はショックを受ける。(荘内史年表)
4月藩主、酒田に馬の遠乗を試み、本間光暉の別荘に臨む。(酒田港誌)
5月鐙屋惣右衛門が問尾頭となる。
5月飛島へ米国船が来て一宿し、翌日下筋へはせる。(咄しの種瓢)
7月11日力士春日山鹿右衛門が没する。45歳。文化12年、黒森の五十嵐文治郎の家に生まれる。天保7年力士を志して江戸にのぼる。嘉永7年春日山を四股名とする。最高位は前頭5枚目。地方巡業の折よく「初っ切り」をやった人気力士である。安政4年11月引退。東京都台東区今戸瑞泉寺に墓がある。
7月25日大風、27日大洪水で作物が大いに痛む。
8月暴瀉病(コレラ)が酒田で大流行し、それより庄内各地に広がる。(荘内史年表)病気
8月英国船が新潟寄湊のついでに、酒田湊にも来湊するとのしらせが幕府からあったが、荒天のため来湊しない。この月幕府の正使青山某が来酒する。
9月英国船2隻が飛島に寄湊し、艀船で近海を測量する。
11月蝦夷地の開拓と守備の必要上、西蝦夷地浜増毛領並びにルルモッペ領より天汐領迄テウレヤゲンシク島を庄内藩に下賜され、ヲタスツ領よりアッタ領迄の警備に当ることを命じられる。(荘内歴史年表)
12月最上川大洪水、八軒町喜代治等乗船の2隻が流され行方不明となる。他にも多くの川船が流される。(野附文書)水害
12月幕府役人が来酒し、4日間にわたり湊口を測量する。(荘内経済年表)
12月金工河野春明が没する。73歳。春明は江戸の金工。業を柳川直春に受け、永く酒田五大院に留まって、刀剣の附属具を造る。近世の名匠で法眼に叙せられ、後藤一乗と時代を同じくして東西に名を揚げる。(酒田港誌)
糀株のないものの糀製造を禁ずる。
この頃雲州方面から「酒田船方節」が伝えられる。出雲節・八木節が入ってきて、それを酒田の人が作りかえたもの。遊女と船頭との情緒纏綿の状を唄っている。またこの当時「酒田甚句」が流行する。
安政年間より明治の初年まで「いざやまき」が大流行する。
花の今町 もみぢの新地 涼み台町 霞の出町 沖を眺むる日和山 頃は三月 白帆が見える 前は大黒 中恵比須 後はよろづの宝船
イギリス船渡来で、上内町・淡路ふ路東口等4ヵ所に新たに木戸をたてる。(野附文書)
中町髪結頭権吉が、火防道具、預金の不正等で訴えられ、髪結株取り上げとなる。(市史史料篇二)
船場町須田長助等が庄内藩より、蝦夷地廻船差配を命じられる。また本間正七郎手船讃岐丸等が庄内藩雇船となる。(最上川流域の歴史と文化)