万延元年(1860)

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万延元年1860正月松平企人(酒田城代)が蝦夷新領地総奉行となり、塚原新兵衛を箱館留守居役とし総勢230人を派遣し警衛と開墾に当らせる。(酒井世紀)
1月加藤宅馬が城代となる
3月9日江戸新堀留之助船、沖船頭佐太郎が越後上米2,575俵を積んで、越後海老江出帆、加茂を目指したが風雨のため入湊できず、漂流をつづけ、ハツ時辰巳風でしけり、佐渡を目前に申酉の風で大破する。米を捨てて漂流し、翌朝飛島に入る。2,144俵中、1,231俵が助かる。林伊太郎代官手代が見分に来る。(飛島誌)
3月から5月にかけて、コレラによる死亡者多くなる。疱瘡・麻疹流行、いずれも重い。病気
5月11日晩大風、田畑諸木とも大痛み。7月上旬大風。
5月晦日大雪代水で最上川沿岸の川船200艘が漂流する。
5月高野浜地区を町並とする。
9月丁離が同心扱いとなる。
9月諸国名所百景のうち「出羽鳥海山」を摺った版画が出る。二代廣重、大錦竪・魚栄板。鳥海山と最上川の河口を配色も豊かに描き、宮野浦には漁家と停泊船が点在している。(藤井家蔵)
10月4日武芸者佐藤三弥記が没する。68歳。三弥記名は正明、常観と号す、亀ヶ崎の歩卒。寛政5年に生まれる。武芸に通じ、ことに手裡剣は入神の技があった。門人が多い。また文学を好み、和歌及び筆札を能くする。口書(含書)を巧みにする。奇警の言行を以て聞える。秋田侯が五百石を以て、彼を召しかかえようとしたが、藩主は許さなかった。秋田藩士で門に入り教を乞う者が多い。平素生活はほとんど五百石の上士と同じだった。服部菅雄に『源氏物語』をきく。峰鷲院に葬られる。(酒田港誌)
10月当町を31組とし、総人数1,424人による火防組を組織する。三十六人衆の火防役割は弘化3年のそれとは変動があり、町奉行付4人、御米置場付4人、御高札場付4人、龍吐水付跡火防掛11人となる。
12月28日大雪のところ、暖気による雪解けと降雪で洪水となる。赤川の被害が多い。酒田御蔵米3万俵浸水、新堀村で6人水死する。水害
12月光暉に蝦夷地物資回漕取扱を命ぜられる。金1万両を提供、別に金2千両を献納する。本間健吉も金200両を献納する。(市史史料篇五)
英国船2隻が飛島に寄湊する。英国水路測艦アクタコン号の軍医アーサー・アダムズはタブ林の湿地帯に生息しているトビシママイマイを発見し、翌年学界に発表する。
この年物価が騰貴する。
糸魚が不足、鱒は沢山、鰯はなし。(咄しの種瓢)