文久元年(1861)

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文久元年18611月小松周輔が町医頭となる。
2月問屋衆から5文ずつ徴収し五文銭と称して、町救済金を積み立てる。当町諸掛費は約400~500両の予定。また沖出米穀百石から15俵ずつを置米ととなえて徴収する。
2月米会所が下本町の重太郎屋敷から敷地不足のため、七ノ丁突き当りに移転する。この頃、問屋が30軒もあって、鶴岡と同じように問屋仲間内から問屋頭3名を互選し、町奉行の任命を受けて歩座方の監督に当る。
3月川船差配役松田又右衛門・問屋頭鐙谷惣右衛門らが山形に行き、山形商人と川船運賃について交渉する。大石田・谷地の商人とも交渉する。
5月18日大雨、大洪水。水害
6月7日晩大雨、大洪水。水害
7月江戸から飛脚がきて、英国船が測量のため来湊するとのことを報ずる。(編年私記)
9月18日宮城県を中心とする地震。地震
12月城米川下し破損弁償米の分担割を郡中3分の2、船方3分の1と定める。
海辺のもので海上でひそかに外国船に米を売るものが多く、禁じられる。
鵜渡川原村字山居町 山居は最上川流域の変遷により洲嶼となったもので、明暦年中の酒田町絵図に「山居嶋」と記されている。蘆葦が叢生し、狐狸の巣となっていた。文久の初め、三十六人衆根上善右衛門・大庄屋栗林新右衛門がその地上権を取得するに及び、開拓を企画し、民戸をこれに移住し、一部落を成し、山居町と字した。今の山居倉庫がある所である。かつて、山居倉庫の裏には土堤があり、うっ蒼として列なる松樹は、本間光貞の手植する所で、防風林となり、また一名勝として絶好の散策地となっていたが、太平洋戦争後土堤も松もなくなった。
安政6年開港以降、物価が騰貴し、5月の米価10両につき7俵3分、塩は4斗につき120~130文。
米高値で下の山王社に打寄の掛札が出たため、打寄せする者は厳罰と命じられる。(市史史料篇二)
うなぎが高値となり、老人や病者の薬用にも差つかえるとして、新町鰻屋亀吉だけに商売させるよう願い出る。(市史史料篇七)
庄内藩で蝦夷地に土着の希望者をつのり、その荷物は酒田の柿崎孫兵衛まで届けることを指示する。(温海町史)