文久2年(1862)

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文久2年18623月2日日向川の新川が完成する。日向川は日本海から吹き送られる風砂により絶えず河床が変動し、そのため洪水がしきりに起り、惨害がひどかった。天保年間、遊佐郷大庄屋金野茂作は、印旛沼開さくの経験から、根本的解決策をはかり、新川掘さくを主唱し、安政2年、4人の見立人とともに自費をもって工事を始めたい旨を藩に願い出る。同4年、藩はこれを許し、藩士萱野又兵衛が監督助成した。前後6ヵ年の日数と人夫延20万人を費して、ついに長さ2,500メートル・幅200メートル、深さ1~2メートルにわたり海抜30メートルの西浜砂丘を開いて新川が完成し、水害は著しく減じ、百数十町歩が開墾された。上市神小公園に碑がある。
3月近年水油高値につき沖出停止、菜種の沖出しも禁じられる。
4月から6月にかけて酒田で麻疹が流行し、船場町で184人、酒田中で646人がかかる。死亡者が多くて、盆踊りに出るものが少なかったという。(余目町史資料一)病気
5月清河八郎が回天封事を朝廷に上り天覧に入る。前年江戸で獄に投ぜられた妻お蓮は8月7日獄死する。23歳。お蓮は熊出村菅原善右衛門の娘である。(荘内歴史年表)
6月小間物屋18軒が年々20貫文ずつ、質屋組37軒が年々72貫文ずつを、町用金に寄付することとなる。
9月酒井忠寛が卒去する。24歳。12月忠発の四男忠篤(第十三代)が10歳で家督する。
11月湯銭1文増、7文となる。
12月近年最上仕入荷物が多くなり、積船不足のため、船の新造を願い出て許される。