文久3年(1863)

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文久3年18631月酒井右京ら藩政改革派が尊王の題で初詠会を行う。
3月13日公益家佐藤英治郎が生まれる。明治26年飲料水供給の不便を解消する目的で水神明盛講を結成する。ほかに自動引水方法などを考案して便宜をはかった。没年不詳。上内町に住する。子孫は同所で文房具及び本屋英嶋屋を開く。
3月湯屋13軒、薬湯屋2軒、年々町用金に3貫文ずつを寄付する。
3月藩主忠篤が禁闕守護の幕命を受けて14人の親兵を遣わす。10月親兵を解隊させ、11月江戸府内取締を命ぜられ、家老松平権十郎に江戸詰を命じ、多数の家人を登らせる。幕府は功を録して公領地田川郡の内2万7千石を賜り17万石格となる。さらに村山郡公領地7万4千石の収納を委任して、府内取締の用に供させ、新徴組並びに新整組を附される。(荘内歴史年表)
4月13日清河八郎が江戸で暗殺される。34歳。清河八郎名は正明、字は士興・楽水・蒭嶤子と号す。清川村に生まれる。江戸に出て東條一堂に学び、のち聖堂に入り、また安積艮斎の門に游ぶ。武を千葉周作にならう。業成って文武の塾を下谷お玉ヶ池に開き、子弟を教授する。尊攘の大義を首唱し、諸国を遊説して同志を集める。浪人組(新徴組)を組織して攘夷の期を幕府に迫る。4月13日幕老は密かに刺客に命じて、麻布一の橋で暗殺させる。『文道篇』『武道篇』『潜中記事』等の著書がある。清河神社及び清河八郎記念館がある。
4月15日新徴組160名が庄内藩にあずけられる。(荘内史年表)
8月15日江戸小梅の宅で国学者、鈴木重胤が暗殺される。52歳。重胤は淡路国仁井田村の人。神戸の庄内米取引問屋橋本藤右衛門の紹介によって酒田秋田町の問屋渡辺五兵衛に宿する。庄内に留ること約半年、その間皇典学の講義、和歌の教授をし、学舎を賢木舎と称する。門人多く、著書数種ある。 最上川名産の埋木を詠める歌 埋木のかくはてぬ君か代に神の古事あらはれにけり 重胤
8月光美家督相続(六代)。幼名治郎太、後壮吉・隼人助・外衛。(市史史料篇五)
8月15日光美が米沢藩に御用金5千両を提供する。(上に同じ)
9月13日僧文隣が寂する。64歳。文隣は鶴岡に生まれ、幼より画をたしなみ、長じて谷文晁に学ぶ。天保2年、飽海郡江地王龍寺に入り、第十一世の住職となる。庄内藩転封の報があると、文隣は大いに驚き、同志と方略を謀議し、東奔西走して藩主の恩沢を説き、嘆願書を認めて決死の徒を潜行させ、秋田・仙台等の諸藩にも哀訴嘆願する等、苦心惨澹を極め、遂に転封中止の命に接する。文隣が農民運動の中心となって、心血を傾注した力は極めて大きい。本間家を訪れる途中、馬上で急に病を発して没したという。
9月小湊川渡し場より浜手と、船場町外れより今町外れの海岸に据付けた大砲の試打で、高野浜道等が通行禁止となる。(市史史料篇二)
文久の頃、本町一丁目の五十嵐仁左衛門が画家の五十嵐雲嶺に本町通り景・鶴田口雪・高野浜舶・海向寺月・新井田橋・妙法寺鐘・谷地田稲荷・日和山眺望・山王社雨・山王桜を画かせ「酒田十景」として版画を売り広める。いまでいう観光宣伝である。このうち「高野浜舶」に「5月雨や燃えさしながすかかりふね、サカタ魯長」と俳句がのっている。北前船は毎日夕暮になると、全員、海が見える方の舷側に集まり、少年の「かしき」(炊事・雑用係)が海上安全を祈り、海神へ献灯をする。このとき海神名を唱えながら、松明(たいまつ)のようなものを海へ投げるという風習があった。こうすると水難にあったとき、海上に天燈・龍燈といわれる神火が現れて、救われるという信仰があった。善宝寺の天燈・龍燈もこれである。従って夕暮ともなると宮野浦沖や高野浜や湊に瀬がかりしている海船は一斉に海上に火を投げるので、壮観であり、幻想的な美の世界をかもし出していたものと思われる。
庄内藩が宮野浦に家宅をたてて藩士長尾内記を主将として25戸を移住させ、海岸を警備する。御普請用掛は白崎五右衛門(一誠)・大工頭は本間惣治である。惣治は最上以来の普請方直支配、亀ヶ崎大工頭並びに川北三郡諸職人取締の役家である。(本間惣治記録)
袖浦地方甘藷裁培の祖・田中与平の功碑を浜中にたてる。
中町属町の西浜新屋敷居住の36名から、寸志金100両を上納するので茶屋家業を認められたいと願い出る。(野附文書)
丸沼村地方の最上川川欠防止のため、新川開削工事を行う。人夫7万3千余人、工費1,630両を費したが失敗する。(我等のふるさと新堀)
道具屋50人より、年々寸志金20貫文を上納するので、道具屋のみに御焼印を交付されたいと願い出る。(野附文書)
須田永治兵衛悴仙之助が内町組大庄屋父子勤となる。(上に同じ)
七代目山田太右衛門が蝦夷地運送雇船につき藩から賞される。素封家、先祖は伊勢国山田の地侍で加賀国本吉を経て酒田に移住し三十六人衆の一人となる。本町六丁目北側にすむ加賀屋と称す。