慶応元年(1865)

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慶応元年1865正月本間家が片町平三郎(小作米を運ぶ船頭)等14名を譜代に召抱えたいとの願書を出す。
5月菓子屋たちが、年に20貫文ずつ町用金として寸志金を出す。
5月髪結賃を町人は鶴岡と同じに28文と改める。
5月疱瘡が流行し、酒田で1,200人が死亡する。病気
6月湯銭1文増により、9文となる。
7月近年新穀を今引米といい早秋、沖出しするもの、また青田売をするものがあり、当年米価未曾有の高値のため、郷中並びに問屋・仲買のものに厳禁の旨を達する。
8月町内に養蚕希望のものが多く、桑不足となり、西浜に桑植付場をつくるため、土地の借入を上林熊記から町奉行に願い出て許される。
10月安田村高道山白狐広福稲荷神宮を建立する。
11月新屋敷地の高野浜を新町と命名する。
11月寛文年中に町奉行中台式右衛門が中町や台町を創設し、また川船運送の掟を制定した功に報いるため、川船方役のものが発起人となり、武右衛門の追善供養を泉流寺で行い大卒塔婆をたてる。
三山参詣人が前代未聞に多い。
この年から三瀬漁民の北海道への出稼漁業が始まる。当時二隻、漁場は留萌。
幕末の港番付である「国々湊くらべ」において、酒田湊は新潟・秋田をおさえ、北陸の三国についで前頭二枚目に位置づけられている。
酒屋数並びに酒造米石数は、酒田27軒・石数約938石、鶴岡25軒・約1,146石、大山34軒・750石。庄内全体では136軒・4,612石。
小間物屋18軒、木綿屋22軒がある。
宮野浦で40軒が焼失する。(荘内史年表)火事
日和山常夜燈を修覆する。翌年現展望台(方角石あり)の所を六尺高盛する。(市史史料篇四)