慶応2年(1866)

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慶応2年18661月医師、佐藤蒿庵が没する。76歳。正徳寺に葬られる。医を業とするかたわら力を公共慈善に盡し、白崎五右衛門と相議って十全堂を創立し、天保飢饉に際し、慨嘆していうには、当今、刀圭を執り疾病を療するより、餓える者若干を救う方がよいと、率先して有志と謀って窮民を救う。当年の飢饉は仝国到る所で餓死する者が多かったが、ひとり我が酒田では餓死するものが少なかったのは、蒿庵等の力による。これより前、蒿庵調合の補心丸は遠く京師に行われ、梶井宮法親王の御用に達し、法橋に補任されるとの内旨があったが、藩命により辞した。(飽海郡誌)
4月28日町在共、大浜へ打寄り、穀物高値につき嘆願、これにより沖止となる。(咄しの種瓢)
4月本間家が大坂方面の藩債返済用金として1万5千両を提供する。
5月光美が酒田湊新口銭徴収に関し、藩庁の出役と協力すべき旨を命ぜられる。最上地方より大坂・敦賀上下の貨物その他で、従来酒田湊では無口銭のものが少なくなかったが、幕府に内申の結果、旧制を改め、一切他と異なることなく、口銭を徴収することに決まる。
5月問屋頭月番が始まる。
6月雲井龍雄が来酒する。伝馬町吹浦屋に宿り、夜、荒町で寺子屋を開いていた米沢出身の神保乙平をたずね、遅くまで密談する。庄内藩の動き、特に公武合体派のそれを探ったものと思われる。これより酒田、市に出て一折、秋田・伝馬町に出づ、伝馬町は今町に続く、我輩、伝馬町吹浦屋に投ず、時すでに申牌(午後四時)を下る、直ちに神氏を荒坊(町)に訪う、荒町は極め小路南の横坊なり、神氏、(神保乙平)客ある故に、心緒を尽す能わず、草卒に吹浦屋に帰る。(庄内紀行)
9月28日鶴岡下山王社に農民約千人が集合し、さらに10月18日上藤島六所権現に集合して減税救助の強訴を企てる。(荘内歴史年表)
9月生糸類の自由売買を禁じ、鶴岡で問屋仲買人を定める。酒田では永田茶右衛門に取締方を命じたが行届きかね、永田に生糸問屋兼業を命ずる。
12月諸物価高値につき、本間光美が酒田町の盲人に銭100貫文を施与する。
薩摩開成館の英語教師をしていた本間郡兵衛が大和方コンパニー(薩州商社)に本間家を参画させる等のため来酒する。藩では薩摩のスパイと疑い、監視する。郡兵衛は日本最初の株式会社である薩州商社を立案したと思われる。
富豪の子弟のうち優秀なものは米沢の興譲館の友于堂に入っており、近くの致道館は身分的制約が厳しく、町人は入れなかったという。
梶原久三郎のような不世出の武芸者を出した亀ヶ崎も、ようやく士気も衰え、武芸を稽古する者が少なくなる。
鋳物は酒田に根づかなかったらしく、幕末には山形から唐釜・鍋釜を、本間正七郎を金主とし、秋田町の廻船問屋渡辺五兵衛の運送で商うことを、下内町弥平治・秋田町平三郎・台町利助の3名が願い出る。
山王両別当の勧化と両台町中よりの出金で30年前類焼の、下の山王社の台町口鳥居を100両で再建する。(市史史料篇七)