元号年 | 年 | 月日 | 事項文 | キーワード |
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慶応3年 | 1867 | 2月2日 | 僧侶耕月、大信寺十一世住職が没する。44歳。文政7年生まれ。姓は新田、碩学をもって知られる。儒者伊藤鳳山と深く交わる。鳳山命名の清練堂と号する。酒田漢文学の舞台となったのは、さきの上林白水家に続いて、幕末では大信寺であった。ここに多くの文人が集まり詩文を応酬したことは、いま光丘文庫に残されている草稿類からもうかがわれる。また同寺は釈無等が伝えたこともあって玉川遠州流のメッカであり、当時、酒田文化の中心であった。 | |
| | 3月 | 光美が西浜(光ケ丘)防風林に松苗1万4,330本を増棣する。(市史史料篇五) | |
| | 3月 | 三十六人衆が火防組の役割りを定め、火災の場合に出動しない者から過料金を徴収することにする。 | |
| | 4月 | 宮海村で大火、神社も焼失する。(西荒瀬の鮭) | 火事 |
| | 4月 | 月山権現御縁年につき御開帳の建札を伝馬町・新井田橋等に立てる。(市史史料篇八) | |
| | 5月 | 浄福寺より高祖聖人六百回忌法会の届出がある。(上に同じ) | |
| | 6月 | 英国測量船が宮野浦沖合に来航する。(英国より長さ七十間余の船、酒田湊へ来り、三日掛り居、松前へ行く。)(咄しの種瓢) | |
| | 9月11日 | 庄内騒動がおこり、酒井右京・大山庄太夫ら藩政改革派が一網打尽に処刑される。「でろ一件」ともいう。 | |
| | 12月 | 庄内藩兵ほか二千余が江戸の薩藩邸を襲撃し、これを焼き払う。このとき大砲配置等の作戦を練ったのは本間耕曹である。 | |
| | 12月 | 川船方請負人津国屋太治兵衛が享保以来350両で、城米用船と御召船の新造や修理をしてきたのを、最近大工賃その他高値のため、250両の増額を願い出て許され、年々100両を下付されることに決まる。 | |
| | | 天狗騒動で三十六人衆の廻船問屋長浜五郎吉が首謀者として活躍する。 | |
| | | 瀬戸内海の小豆島から極上もの御影石で作った春日灯篭や雪見灯篭を、浜田の藤井家で15基買入れ、庭園に配置する。 | |
| | | 越前三国・佐渡小木とともに酒田は船箪笥の三大生産地といわれる。 | |
| | | この年の本間家の総利益金268,347両、うち金融によるもの182,306両で70%を占める。(市史史料篇五) | |
| | | フランスより長さ30間余の船、ミニギル銃を積み酒田湊へ来る。酒井公が買揚る。(咄しの種瓢) | |
| | | 維新前の酒田の教育は小松周輔(鍛冶町)神保乙平(荒町)本間礼蔵(本町二丁目)芳泉直太郎(本町一丁目)野附彰常(荒瀬町)等、篤学の士が寺子屋的な私塾を開いて教えていた。 | |
| | | この頃異国物多く渡りくる。天竺木綿・異国木綿・ラシャ・ビロード・テレンプ・ゴロフグ・モヘル・フランケ・ブリキ細工・寒暖計・地震計・風雨針その他数知れず輸入される。(咄しの種瓢) | |
| | | 船場町の中国屋佐次兵衛宿船・油戸船の水夫二人が、湊で出水のため水死する。(市史史料篇八) | |
| | | 船場町問屋本間屋長三郎と小山屋太吉が米を買占したという張り紙が貼られる。(市史史料篇八) | |
| | | 船込の折に芝居を一興行すると、千両位の金が動くので興行を盛んにとの要望が出る。(亀ヶ崎足軽目付御用帳) | |
| | | この頃、スパイ防止のため亀ケ崎足軽目付による他国からの移住者に対する監視が厳しくなる。その反面、秋田方面の情報を盛んに探っている。 | |