慶応4年(1868)

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慶応4年18681月亀ケ崎城で出征軍の備え立がある。
1月三十六人衆の32人を4組に分け、4人の世話役をおき、非常の際、指図を受けるべき旨を藩に届けでる。
1月秋田軍事の模様により酒田湊や吹浦口を固める。
亀ケ崎城内に「鵜渡河原合薬製造所」が建設される。明治3年4月の「酒井家より取揚器械帳」の中に「一、合薬製造樽壱ツ 一、同丸ズ台壱ツ 右者鵜渡河原合薬製造所より取寄候分」とある。これは当時としては最新式の黒色火薬製造装置であった。これは本間耕曹の指導によると思われる。
2月泉流寺裏で寺社方が砲術の稽古をする。
2月庄内藩が奥羽列藩と同盟して、官軍との決戦に備える。
3月9日新徴組・大砲組都合二百余名が酒井家預りとなり庄内にくる。
3月戊辰戦争がおこる。
3月奥羽征討軍が京都を進発する。
3月市中掛に清水助一・副田専之助・福田要八を命じ、年寄・大庄屋は市中掛の所属となる。
4月6日武器弾薬を積んだ美賀保丸が入港し、武器弾薬を本間家の下蔵に入れる。
4月14日戦いに備えて船場町の下・御米置場・山王山・今町・台町裏通り・千日前に土塁を築き、新井田御門前には御番所を設ける。鵜渡川原の四つ角には木戸二力所と御番所を造り、夜は縄の網を張りめぐらす。
4月18日本間光美が軍用金才覚・軍用品買上御用となり、また大浜取締役となる。銃器購入については本間午之助・本間友三郎(耕曹)等をして海路横浜及び新潟・箱館等に出張させる。外国人エドワルド・スネル等がしばしば入港(5月12日・8月4日)上陸して、現品の受授をする。このとき、たまたま病気をしていた光美にスネルが牛乳を飲ませたという。(酒田港誌)
4月19日観音森で砲戦、大勝。
4月24日清川口の戦闘で勝利をおさめる。
4月俣野市郎右衛門が亀ケ崎組頭となる。
4月吹浦・酒田・鶴岡間の村々入口に番屋をたて、10人ずつをおき、他国商人が市中に入るのを防ぐ。
4月酒田の警備は城代朝岡助九郎となる。(市史史料篇八)
4月石原平右衛門ら遊撃隊が酒田に到着し、戦地に出発する。
4月山王祭禮が戦争のため中止となる。(市史史料篇八)
4月柴橋大合戦で大勝、続いて天童城を落す。
4月篤志家佐藤正八郎が没する。55歳。富豪で天保13年6月内町組の長人となり、元治元年に大庄屋格になる。
5月12日蘭人スネルが新潟港に至り、銃器を米沢・庄内等の諸藩に譲り渡す。
5月12日酒田ヘロシア船来舶。異人つごう26、7人。蒸気船の器械に見物人は驚く。
6月11日ミニケール銃と火薬を積んだ異国船型の翔鳳丸が入港する。
6月版画「出羽庄内酒田風景」ができる。貞秀画・大錦三枚続。(市史史料篇八)
7月幕府の飛脚船奇捷丸が入港する。
7月粟島明神会式で、博徒の今町八蔵等がばくち中、寄港中の奇捷丸の水夫がこれに加わったことから大げんかとなる。(市史史料篇八)
7月13日13日より三崎・観音森・女鹿村・瀧ノ浦村等で戦争、28日矢嶋落城。緒戦では秋田や新庄勢より銃砲が優れていたため連戦連勝であった。
7月14日新庄城落城。
7月17日洋学者本間郡兵衛が没する。47歳。郡兵衛は本町二丁目本間信四郎の次男。幼名規矩治、のち光喜と改める。字は有得・眉仙・北曜は画号である。江戸に出て、蘭学を杉田成卿に受け、かたわら絵画を葛飾北斎卍翁に習い、彫刻を友親に受ける。瀧澤馬琴の風を慕い、指導を馬琴の女某に受ける。安政2年、幕府は蕃書取調所を設立し、鷲津毅堂を所長とし、都下の学士20人を選び、僚属とし、洋学を研究させる。郡兵衛も選ばれる。同3年長崎奉行伊澤美作守の子息とともに長崎に赴き、和蘭の通辯に従事し、同所で北米大神学博士フルベッキにつき洋学を研鑚する。その後、薩州藩主島津公に聘せられ、西洋学館「開成所」の訓導師を勤める。欧米諸国を視察し、慶応3年6月帰国し、明治元年、大和商社設立のため来酒し、藩吏に疑われ、鶴岡池田氏に幽せられ、一日その家に頓死する。慱えるに脚気衝心を以てするも実は毒殺されたという。(酒田港誌)
7月28日~8月4日までプロシア船アカハネ号が銃器取引のため、酒田港に入港する。
8月11日酒田町兵を六番隊まで組織する。従軍者総数386人。そのうち大工町の大工たちが工兵隊を組織して、司令下妻孫兵衛・半隊長柴田寿三郎・世話役本間惣治(大工頭)で出陣する。南千日町の瑞相寺境内には戦死者の霊を弔った工兵隊の墓がある。秋田椿台(9月11日)越後口関川(9月12日)の激戦に参加し死傷者52名を出す。この頃よりスペンサー銃(7連発元込銃)やアームストロング砲の新式の銃砲を有する佐賀・鹿児島・長州諸藩の参戦により清川・関川・椿台等で庄内藩は苦戦に陥る。
8月敵船来港の時は警鐘を鳴らし、老幼婦女子は妙法寺に避難し、壮年のものは消防の準備につくことを達しられる。
8月14日阿部千萬太が角関川で官軍に捕えられ、斬殺される。48歳。名は子龍、亀ヶ崎の歩卒。江戸東條一堂の門に学び、業成って沼津侯に聘せられ、弊政を改める。藩士これを忌み、掩撃してその面を傷つける。右眼明を失う。江戸に去り、四方の志士と交りを結び、また松前に赴き、夷情を探り、のち郷に帰る。戊辰の変に会し、軍の嚮導となり、角間川に於て西軍に捕われる。参謀桂太郎が詰問すると、千萬太は宇内の大勢を説き、兄弟牆にせめぐの非を以てするの開国論をとなえる。太郎その言貌の非常なるを察し、徐ろに処置せんとする。時に西軍苦戦に陥り、太郎奔走指麾し、千萬太を顧みる暇がなく、乱軍敗走の際、兵士の惨殺する所となる。太郎後に聞いて惜しんだ。(酒田港誌)
9月越後境の鼠ヶ関・小国・小鍋・越沢・関川等で大合戦、官軍数万が押寄せる。