元号年 | 年 | 月日 | 事項文 | キーワード |
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明治元年 | 1868 | 9月18日 | 亀ヶ崎勢が陣ヶ村と碇田辺から農兵・町兵を先手として引き揚げてくる。 | |
| | 9月23日 | 藩主酒井忠篤が罪を謝し、降を乞う。庄内軍は連戦連勝したが、のちには苦戦し、国運の大勢を考え、米沢藩のあっせんで、終に藩論は降伏謝罪に決し、家老水野藤弥・山岸嘉右衛門を連れて官軍の本営清水駅に至る。参謀黒田了介(清隆)が應接する。山岸は大いに折衝し、本藩の意を徹底させる。のち黒田は正使として鶴岡・亀ヶ崎の両城を受取る。(酒田港誌) | |
| | 9月26日 | 征討軍が庄内藩境各地の守備を解き、参謀黒田了介(清隆)は清水駅より単身最上川を下り鶴岡に入る。28日、西郷は黒田が開城の処分を了えるのを見、翌日直ちに引揚げ、新発田の北征総督府へ、東北鎮定の報告のため出発しようとしたが、黒田の懇請を納れ、1日延期して29日、黒田と同行して出発する。処分が公平寛大で王者の師たる態度であったので、庄内藩の敬服する所となる。降伏条件は黒田の達し書であったが、西郷の指導を受けたものという。 | |
| | 9月26日 | 官軍が酒田に入る。薩州・長州・小倉・鍋島・秋田・新庄・本荘・矢島・加州・雲州・佐土原・肥州・筑州等の人数が追々着く。薩州の本陣は鐙谷、長州は尾関。酒田は主として雲州・肥州の両勢で固める。庄内へ入った総勢4万4,850人。諸大名50余家。酒田には約4千人。その後、秋田より蒸気船で迎えにくる。 | |
| | 9月27日 | 亀ヶ崎家中の武器を器材役所に差し出すべき旨を達せられる。 | |
| | 9月 | 本間家が代家支配人64名に支配田地を任せる旨の譲り證文を与える。(市史史料篇五) | |
| | 9月 | 戦場から負傷して帰るもののために海晏寺に療治所を設ける。 | |
| | 10月3日 | 長州参謀桂太郎・小倉参謀代平井小左衛門が着酒する。 | |
| | 10月5日 | 久我大納言通久・船越洋之助が酒田に来る。29日には朝廷が新制を施し、参謀船越洋之助は酒田城に軍務官と民政局とを置き、軍団の政を行う。 | |
| | 10月7日 | 庄内藩応援のため、幕府の軍艦長崎丸と千代田形艦が酒田沖にきたが、時すでに遅く、また烈風のため翌8日飛島勝浦港に入港する。その後同月23日の暴風のため長崎丸は座礁する。乗組員(江戸旗本の子弟等)は飛島に上陸し、しばらく滞在したあと、他の船で箱館にゆき五稜郭の戦いに参加し、ほとんど戦死する。船の遣品が多く飛島に残されている。 | |
| | 10月 | 庄内藩17万石が没収され、忠篤は東京芝の菩提寺に謹慎する。 | |
| | 12月3日 | これまで本町上林熊記宅を本陣にしていた久我通久・参謀船越洋之助が本間外衛宅へ本陣を移し、さらに22日から昼のうちは本町六丁目尾関又兵衛宅で事務をとる。 | |
| | 12月 | 庄内藩主酒井忠篤は、封土(17万石)を没収されたが、その後、出格の思召を以て家名を立てられ、庄内の地、12万石(5万石減)を弟忠宝に賜わる。同13年忠宝の譲りを受け、再び立って家を嗣ぐ。(酒井家系図略譜) | |
| | 12月 | 出羽国を最上川を境として、羽前・羽後の二国とする。 | |
| | | 芸州参謀船越洋之助・軍鑑大長本田権八郎外雲州・肥州蓮池勢都合千余人が酒田で越年する。 | |
| | | 横道町は明治初期の絵図に家数8、9軒と見え、町となったのは明治以降である。 | |
| | | 旗本・浪人等が酒田・飛島・鶴岡の在々所々へ隠れおるという。 | |
| | | 戊辰戦争での庄内軍の討死・手負は合せて600人位という。(咄しの種瓢) | |
| | | 明治に入ると船場町などの廻船問屋の中から、奥村七之助・小倉金蔵・伊庭屋・越後屋長次郎・須田屋長助・須田伝次郎・斎藤喜七・佐々木などが北前船を持つようになる。 | |
| | | 市橋行信が没する。46歳。亀ケ崎長泥町の人。志賀某について剣術を学び、長じて直心影流の奥義をきわめ、亀ケ崎で道場を開く。門弟すこぶる多かった。戊辰戦争に参加し負傷する。その子に漢学者賢能がいる。青原寺に門人がたてた碑がある。 | |
| | | 浜田に伊勢両宮社を勧請する。 | |
| | | 山王堂町に延命地蔵(川流れ地蔵)が建立される。 | |