明治2年(1869)

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明治2年18691月5日酒井家へ会津若松への転封命令が下り、藩内は騒然となる。
1月28日旧亀ケ崎城内に酒田民政局がおかれ、西岡周碩が長官となり、専ら川北の民政を掌さどる。川南鶴岡は酒井藩知事。(酒田港誌)
2月庄内領民が転封阻止の運動を起こす。特に酒田川北地方は、政府直轄となり、酒井家から離れることになったため、その撤回運動もする。このとき亀ヶ崎足軽は鶴岡へ移転するか、帰農するかを迫られ大いに苦慮する。
2月18日下山王社等で御永城祈祷集会を開く。24日酒田近郷の農民は民政局に転封とりやめの嘆願書を出す。藩上層部や本間家の支援のもとに、村役や上層農民を中心に、上京して嘆願運動を起す。また、本間家を通じ、庄内農民4人が東本願寺へかけこみ法主から明治天皇へ懇願したところ「庄内は別段の所、転封はさせないよう」との御ことばがあったという。
3月4日酒田城代及び諸士を鶴岡に退去させる。代って諸藩の官軍(本庄・天童・矢島・新庄の人数、つごう1500人)を以ってこれを守らせる。(飽海郡誌)
3月13日民政局は酒田町奉行を廃止し、口銭役所を改めて流通拠点とし、行政権を掌握する。
3月新井田橋御番所を官軍に引渡す。(市史史料篇八)
4月川口役所を運上所と改める。課税をいままで100両につき3両2分のものを2両にし、非売買品は1両にする。
4月御米置場が官軍のためこわされる。
4月20日この頃亀ヶ崎城を民政局へ引き渡す。
4月21日幕臣、天野豊三郎・同佐藤桃太郎・同関口有之助の三烈士を官軍が今町北端の首斬場で斬に処する。妙法寺の児童公園に三烈士の碑がある。同寺の墓地には3人の胴体が、八ッ興野の林高院には首が葬られている。林昌寺には鬢髪碑がある。桃太郎は、佐藤藤佐の次男、然僕の孫。父喜惣司の跡式を襲って旗本の士となる。佐幕論を主張し、幕府解体の際、同志と各所に転戦し、逃れて庄内に入り、田川郡八ッ興屋の農民半三郎の許に投じたが、明治2年、酒田民政局長官西岡周碩と順逆を激論し抗弁して屈せず。ために松山藩に幽せられ、転じて酒田新米屋町佐藤九郎右衛門の家に幽す。同志関口有之助・天野豊三郎とともに酒田に於て斬に処される。のち有志が大正2年11月「三烈士之碑」を妙法寺境内に建てる。伯爵林董篆額、志賀重昂撰文・竹内(丑松)恒孝書。(酒田港誌)
4月22日22日より軍務官・民政局上下71人が二手に分れて飽海郡内を巡回し、絵図面を改める。
4月政府の雇船マアス号(米国船)が酒田に入港する。
5月民政局より神仏混淆廃止の布達が出る。(遊佐町史年表)
5月17日民政局下役が出郷し、人別改めを行う。
5月終戦処理、転封と賠償金問題につき光美が上京し、政府の大隈重信と用談する。この時、大隈より政府の御用商人になるよう勧められたが光美は辞退する。(市史史料篇五)
5月下旬鵜渡川原足軽は農民となり、そのまま居住となる。北海道移住者も多い。
6月鶴岡の大砲・小砲・玉薬残らず民政局へ取上となり、無棚船700余艘で酒田へ積下す。
6月22日西岡周碩が本楯の松本清治等の建言により天正寺に学而館をひらき、子弟を教育する。取立役頭取筒井酉司、森藤右衛門・野附彰常等が教授に当る。(公立学校の始まり、生徒数約百・教員数8、天正寺に「教育創始之処」の碑がある)(飽海郡誌)周碩は宜軒と号す、九州佐賀藩の侍医。官途につき、累進して函館控訴院長となる。のち相州小田原に閑居して没する。(酒田港誌)
6月24日忠宝に版籍奉還を許され、庄内藩・松山藩を置き、各藩主を知事に任じられる。
6月24日庄内藩主に岩城平転封の命があり、本間家は庄内藩に金5万両を献納する。(市史史料篇五)
6月年寄格と三十六人衆の由緒書を民政局に出す。
6月光美が鉱山司判事(庄内在住)を命ぜられ羽州鉱山取扱御用となる。(市史史料篇五)
6月本間家が政府に5万両を献納する。全国で5万両以上の献納は6人に過ぎず、三井・小野・島田・鴻池ら三都特権商人と匹敵する巨額である。
7月藩では50万両を献納するから転封をとりやめるよう政府に交渉する。
7月22日転封取りやめの達しがあり、代りに70万両の献金を命ぜられる。
酒井侯が藩知事に任命される。
7月酒田民政局を廃止し、第一次酒旧県を置く。西岡周碩が大参事となる。
8月岩城平へ引越していた庄内藩士、千人余が庄内に帰ってくる。
8月海防や藩財政に尽すところが多かった本間光暉が没する。67歳。光暉、通称外衛、藩主から閑楽の号を賜う。当時、時勢は日に騒擾を加え、ついで戊辰の役に会う。光暉は陰に光美を助け、また子弟を励まし、藩のために尽力した。
8月いままで年寄・大庄屋は自宅で事務を取り扱っていたのを改め、町会所を本町四丁目・米屋町・内町におき出勤させる。
8月酒田県で町内を測量し、沽券(売券)を調製する。3年2月完成。
8月下旬雲州・肥前蓮池勢が引き上げる。ただし隊長斗りは残る。
9月酒田口口へ壱尺角位の柱に「羽州酒田県」と書いて建てる。
9月江戸の蘭医生林量索が来酒し、酒田の医師須貝玄益・筒井酉司らと相談し、酒田県に病院設立を願い出る。
9月中旬細川藩の津田山三郎が酒田県の権知県事となり、上下70人ばかりが酒田県へ来る。
9月庄内藩を大泉藩と改める。
9月酒田租税局が管内酒造家に初めて酒造税の上納を命ずる。
9月三瀬漁民のいわし流し網漁業が初めて行われる。
9月田畑不作のため県に色々嘆願しても取請なく、川北百姓が大浜所々へ打寄り、大騒動となる。
10月樽川の菅原弥右衛門が乾田法を始める。(遊佐町史年表)
10月本町四ノ丁の御制札場へ目安箱を掛る。色々の嘆願書が入る。
10月酒田県から飛島の所属について民部省に伺いをたてる。
10月22日按察使坊城少将・渡辺判官が来酒する。宿は海晏寺と妙法寺。
10月戊辰戦争以来の農民の不満が爆発し、酒田三十六人衆長浜五郎吉等を指導者とする天狗騒動が、激しく展開され、5年2月まで続く。2年10月22日には酒田山王社に川北農民が集まり、雑税廃止・苦役免除・夫食米借入等十八力條の要求を酒田県に提出する。このとき大天狗9人・小天狗数十人酒田の網干屋へ宿る。県では雑税の一部免除を回答したが、農民はこれを不満とし、騒動は激化し、百姓数千人が11月16日大庄屋宅六軒・肝煎宅17軒・米屋に打こわしをかけたので、酒田県の農民支配機構は麻痺する。(ワッパ騒動史料上巻)
10月浜中村へ異国スネルの船がはせ上り、スネルは肝煎宅で越年する。
10月26日イギリスの蒸気貨物船オーシャンクイーン号(Ocean Queen 572トン)が新潟から函館に向かう途中、宮野浦沖で座礁する。その後、女性一人や子ども2人を含む39人の一行は、新潟駐在の外務少丞、水野千波若狭守の指示に基づき、荘司鉉七郎少属、宮岡謙次郎権少属、合田甚太郎少属心得(通訳)による先導で冬期間を28日間かけて酒田から横浜まで徒歩、かご、馬で戻る。これに対する謝意として、イギリス商務庁から前記4人のほか宮野浦の4人の百姓(伝兵衛、伝次郎、与曽右衛門、政次)に対して計405両(100英ポンド相当)の謝礼が明治4年12月に贈られる。(国立公文書館アジア歴史資料センター外務省外交史料館所蔵資料)
10月本間家が旧藩の戦争賠償金上納のため六万両を東京商社会所より借用する。(市史史料篇五)
10月藩では10月末までに30万両を政府に献納する。そのうち、6万両は前述のように本間家の信用で東京商社会所から借りたもの。既述のように5万両は本間家の献納。
11月酒田県が裏肴町から鍛冶町までの塁壕を埋め立てる。
11月5日酒田詰の天童・新庄・本庄の兵隊が総引上する。
12月3日大原重美が酒田県知事に任命され、岩男俊男が大参事となる。津田山三郎は権知県事を免ぜられ、大参事となる。(遊佐町史年表)
12月4日大天狗9人入牢。小天狗は残らず酒田を引き払う。三十六人衆長浜五郎吉が大天狗の長であることがわかり、嘆願書を書いた羽沢周甫と入牢となる。
12月10日大泉藩知事が、飛島は田川・飽海郡の境である最上川が同島の下を流れているとの理由で、大泉藩管下なりとし、民部省に届け出る。
官軍が林昌寺・持地院に仮衛戍病院をおく。(飽海郡誌)
本間外衛が政府勧農掛となり、農村機構再編案を酒田県知事大原重美に提出する。
酒田県の東京廻米策に対し、酒田商人が激しく対立する。
浜田分の百姓が堀切に家を建てる。
牛頭天王を八雲神社と改称する。