明治3年(1870)

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明治3年18701月13日市中諸勧進取締についてお触が出る。(山形県史・酒田県政史料)
1月23日儒者伊藤鳳山が三州田原に没する。65歳。鳳山名は馨、字は子徳、大三郎と稱する。維恭の第二子。朝川善庵に学び、考證学を以てきこえた。かつて「経国無是問答」を著わして、阿部伊勢守及び水戸齊昭に上り開国貿易、兵制改革の事を評論する。また「富国献策」一巻を著して本藩主酒井侯に献ずる。竹腰・田原の二侯は最も鳳山を重んじ、のちに田原藩主は賓師の禮をとる。世に渡辺崋山・鈴木春山及び鳳山を田原三山と稱する。門人が墓碑を建てる。渡辺小半の撰文。著書数百種あり、中でも「孫子詳解」は最も世に知られる。(酒田港誌)
1月三十六人衆の帯刀を禁ずる。
1月天狗騒動はまだ収まらないため、門松を立てず、年始礼も廻らない。
2月20日御年貢取立につき川北百姓大いに騒動する。
2月酒田町の屋敷割と道路敷地の測量をし、いままで宅地税を免れていた大庄屋や町年寄や三十六人衆などにも課税する。
2月酒田港に水戸教船2隻、水夫12人を常置する。水戸深さ27尺位(約8メートル)。
2月酒田港繁栄のため払い米の増加嘆願を大庄屋・年寄連中が酒田県に提出する。(山形県史・酒田県政史料)
3月7日酒井侯来酒、本間家へ泊る。
3月中旬両部修験は殆ど復飾して神道となる。
3月15日本百姓数百人、去春中から嘆願のため、東京に上っていたのが連れ帰される。
3月川北の農民が年貢取立について再び騒動をおこす。
3月23日大泉藩管轄の羽後飛島を酒田県の管轄とする。戸数157、人ロ1013。
3月曹洞宗寺院の触元を一力寺とし年番制に改める。(山形県史・酒田県政史料)
4月29日大谷派本願寺管長伯爵大谷光瑩が北海道へ布教の途次、安祥寺・浄福寺において親教し、本荘より海路函館に渡る。
5月外国船との密貿易を禁ずる。
6月駅逓法の改正により伝馬を廃止する。
8月17日庄内藩士、池田駒城が獄裡で没する。56歳。
8月27日神仏分離令により県の社寺方が回村し、社址の仏像や塔をことごとく取り去る。
8月権大属勧農掛本間外衛・権少属一戸祐也が村々を回村し、勧農の主旨徹底を期して稲田に関する心得書を出す。(遊佐町史年表)
8月水帳絵図面の整理と町方へのお下げの願いを出す。(山形県史・酒田県政史料)
9月天狗騒動に対する不手際から大原知事は免官となり、第一次酒田県は廃止され、山形県管轄となり、山形県酒田出張所となって、坊城山形県知事の管理下におかれる。このとき亀ヶ崎城は取り壊される。その後、牧場や桑畑となる。なお建物の一部は残しておきここを酒田出張所として使ったものと思われ、この建物がのちに亀ヶ崎小学校の玄関等に用いられたのであろう。
9月酒田鎮守日枝神社の世話を今までどおり本間正七郎に依頼する。(山形県史・酒田県政史料)
閏10月4日山形県知事坊城俊章(大参事岩男大膳・小参事大谷某同行)が按察使として再び庄内を巡視し、旧藩時代における疑獄幽囚中の者を釈放する。(酒田港誌)
10月忠篤が藩士50余名とともに鹿児島に遊び、西郷南洲に師事する。
10月広野谷地の内山王谷地を、松明祭や宮社修覆に使用萱入用のため、日枝両社の附属地にされたいとの願いを出す。(山形県史・酒田県政史料)
10月学而館が廃止となる。
11月平民に苗字を許可する旨の達示が出る。(山形県史・酒田県政史料)
12月5日村々には、村名・戸数・人員・石高等を書いた棒杭を立てる。また、町在家毎に表へ高・職名・家内何人等と書いた板札を掛けさせる。
12月5日僧源應、善導寺に寂す。74歳。源應は加茂浄土宗安養寺の住職であったが、隠居して善導寺の宜譽に師事する。俗姓白旗、名は相譽、知鈍と稱し、また潜市と号す。最も書道に達し、門弟が多かった。(酒田港誌)
須階玄益が医会所会頭に任命される。
町医結城文祐が没する。58歳。大町の大庄屋尾形家の八男に生まれ、あられ小路に医を開業。泉流寺に埋葬される。
この頃、鶴岡から元、藩の料理番をしていた加藤一昌が来酒し、本町三丁目鐙屋の脇で牛乳と肉屋を開業する。同6年に祖父山下通りの現鹿野肉屋の所に移り、妙法寺境内に20頭位の牛を放牧して業務を拡大する。10年には大浜へ牛を放牧する。
雲州・肥州両藩が、酒田出張時の病院で使用して残った薬品の分配をめぐり、酒田医師の蘭家と漢家との間で争いとなる。(県史資料篇十二)
茂作新田について開発人などの間で争論となり、酒田県で本間正七郎にその処理を委ねる。(市史史料篇五)
酒田県で注文の郷方植付用の茶実十石を船場町斎藤屋喜七方に荷揚げさせ、うち4石5斗は鵜渡川原村大庄屋に渡し植付けさせる(市史史料篇五)
上内匠町の大工丑五郎が、米価を安くするためとして、岡車組立車で米を搗くことを願い出る。(県史資料篇十三)
手当として1ヵ年金600貫、米10俵が支給されているとして、新町宮野浦渡船場の船越銭は定銭一人12文以外は、酒代等として取らないよう命じられる。(県史史料篇十二)