明治5年(1872)

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明治5年18721月5日農民一揆がおこり、飽海郡村々に立札をし、川北の農民が神社や山に集合する。
1月25日天狗一件につき23人が召捕され、残らず入牢となる。
2月東京の綱渡り軽業・東京大相撲の許可願いを、興行物世話役治郎右衛門より差出す。(山形県史・酒田県政史料)
3月一向宗を真宗と袮するよう達せられる。
3月市会所雑用係に佐竹・西野・梅田の3人がなる。
3月郵便御用掛に尾関又兵衛、同予備に渡辺久右衛門の内達がある。
4月最上川通船につき従来の因習にかかわりなく、自他船とも自由に運輸のことが達せられる。(山形県史・酒田県政史料)
4月西洋医学の泰斗佐藤泰然が佐倉で没する。69歳。泰然は佐藤藤佐の長子。年三十で長崎に遊び、蘭人某について洋学医術を修め、当時の大家と稱せられる。下総の佐倉藩主堀田侯に仕え、初めて病院を建て患者を治療する。これは我国病院のはじめであり、今の順天堂病院である。安政2年、堀田備中守正睦をして外周との假修約を締結させたのは泰然の献策によるという。(酒田港誌)
5月山王祭礼頭屋を営業組合の輪番をもって勤仕する。同13年から各町組合の神宿となり今日に至る。
5月酒田県所轄並びに事務取扱課目を定める。酒田県管下は酒田・遊佐・荒瀬・平田・狩川・中川・京田となる。
5月大石田川船番所並びに荷役税を廃止し、自由通船とする。
5月台町から出火し123戸を焼く。火事
5月酒田市中所持の銃砲及び弾薬類の書上を酒田県に提出する。(山形県史・酒田県政史料)
5月東京為替方の小野善蔵代理永浦正助が来酒し、為替方出張所を染屋小路におき、6月から石代金並びに諸税金の収納を扱う。
6月芝居狂言の類は勧善懲悪の趣旨をもって興行するよう書付を戸長へ渡す。(山形県史・酒田県政史料)
6月当國の産物ブナムシロ・月山のボンデン草・袖の浦の筆草・八ツ目・青赤白の土が東京へ上る。(咄しの種瓢)
7月1日酒田郵便取扱所が設置される(酒田・鶴岡・三瀬・鼠ヶ関・松嶺・清川・吹浦)。
7月後田山開墾事業に従事していた元新徴組・新整組の一部士族が脱走し、6年3月松平・菅等の横暴、開墾の強制、藩兵の維持等を司法省に訴える。翌5月にはさらに金井質直・允釐等が県官の奸悪十力條を司法省に訴える。7月司法省から早川判事が出張して審理のすえ開墾士族100名が処罰される。
8月学制が敷かれ、山岸貞文が学務主任、野附彰常(米屋町組大庄屋)が学区取締役となり、学校の創立を計画する。
8月政府は年貢米の石代納を許可したが、酒田県は鶴岡の風間、酒田の尾関・根上等10名の特権商人による官制の買請石代納制を実施し、農民からは従前通り4斗8升俵の正米を貢納させる。
8月今町鰻屋(相馬屋西隣)本間七左衛門より、新井田川筋の鰻漁の許可を願い出る。(山形県史・酒田県政史料)
8月鵜渡川原、丸の御橋より大宮村に通ずる新道開設について請願が出される。(上に同じ)
9月1日本町七丁目の渡辺久右衛門が飛脚業者の救済と郵便業務を円滑にする目的で、日本通運の前身である酒田陸運会社をつくる。
9月2日酒田で初めて二人の人体解剖を行い、管内の医師が集まる。
9月武家宅地と町方宅地の区別を廃止し、地券を発行する。
9月修験道を廃し、本山・当山・羽黒の三派とも従来の本寺所轄のまま、天台・真言の両本山に帰属することを命ぜられる。
10月酒田県を11大区、30小区に分け、大区に区長、小区に戸長(庁舎を酒田町取扱所という)をおき、その下に肝煎をおく。従来の大庄屋及び町年寄は廃止する。(遊佐町史年表)
11月下旬筒袖、ダンブクロを礼服とする。また角髪を立、さかやきを剃っていたのを剃らず、五分または一寸余に切り、ナデヅキンとなる。
中村太助が初めて鉄船に塩を積み、三田尻から酒田に入港し、最上川を上って、米沢までの塩販売に成功する。これが塩積み鉄船の始まりである。
この頃、地方行政官の人民に対する断圧横暴がつのり、賄賂が公然と行われる。森藤右衛門は奮って地方行政官の抑圧を正し、人民自由の権利を実現しようと活躍する。
御町用金が千両余となり、戸長、副戸長が日和山伝蔵宅で祝う。(県史資料篇十二)
壬申戸籍に受継がれた戸数が3,859戸、人口18,532人。
牛肉・ブタ・鶏類・シヤモ・アヒル・ラツコケイ・ランケイ・ガチョウ・七面鳥・クギン・朝鮮ウサギその外患獣類を食するようになり、そうした商人が増える。
石油ランプ・紙障子、ガラスが一般化し、家の中が明るくなる。