明治6年(1873)

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明治6年18732月伝馬所廃止につき陸運会社を充実し、野附七郎右衛門・栗林新右衛門に取り扱わせる。
3月郵便取扱陸運会社の鶴岡佐藤藤右衛門・酒田渡辺三郎右衛門・渡辺与四郎から酒田・鶴岡間川船通行人品運送方を願い出て許される。
3月本町七丁目の渡辺久右衛門を駅逓寮(等外一等格)に任じ、郵便局建築まで自宅で郵便事務を取り扱わせる。7月には酒田郵便役所となり、8年1月には酒田郵便局となる。渡辺は廻船問屋で屋号を玉屋といった。
4月酒田県から築港意見を徴され、問屋一同が協議し、施すべき策のない旨を回答する。
5月15日肝煎小路から出火して両台町の123戸を焼く。火事
5月太陽暦に干支を記載することを達せられる。(山形県史・酒田県政史料)
5月酒田港内取締規則を定める。(荘内経済年表)
6月1日新寺町に初めて刑罪場をおき、7年6月初めて絞罪を執行する。絞罪は身体を損傷しないだけ斬首刑より軽い。
7月今井孝信・金井与四郎並びに新徴組・新整組の者からの出訴につき、司法省裁判官早川権中判事ほか7人が来酒し旧亀ヶ崎城で裁判を開く。
8月酒田町市街地の等級を定める。
9月最上川運輸規則を定める。
9月小学区を確定し、一区に一校ずつ、6才以上を入学させる。
10月14日本間光美が学校創立費として、千円を寄付する。
10月17日町年寄白崎五右衛門一誡が没する。47歳。幼名謙吾、字は永、松窓と号する。青原寺魯道と鈴木重胤について歌や書を学び、釈無等に茶道を修める。つねに力を公共に尽す。嫡子良弥一随が家督する。(酒田港誌)
10月23日酒田町三区の肝煎に命じ、満6歳以上13歳迄の子弟即ち学齢児童を取調べをさせる。同時に新しく私塾を開設することを禁じ、児童の私塾に入学させるのを止めさせる。(飽海郡誌)
11月安祥寺坊守、福(とみ)子、一つに寿子と称するが没する。60歳。安祥寺住職華園継尊の後室で、京都の公卿西園寺家から来嫁する。総理大臣・元老公望の叔母。和歌を好み、君様と袮せられる。
 いくかへるおなじ河瀬に掉さして浮世をわたる船人の声 寿子
11月各村役人より、地券取調帳を酒田県地券局に差出させる。屋敷は宅地と称する。(余目町史年表)
12月山居谷地に家7軒が建てられる。
12月米一俵一両二朱。
酒田県は政府の新施策を守らないこと、特に石代納、いわゆる金納をしないこと、雑税取立等の非政に対し、農民が所々に集合して騒動を起こす。初めは鶴岡士族の金井質直・本多允釐等が指導、のちには酒田三十六人衆の森藤右衛門が指導し、元老院・左院寺に建白書を出す等して、裁判・言論闘争に切り換える。この騒動は明治13年まで続き、日本農民騒動史上、最長期に渡ったといわれ、特筆すべき人民闘争として注目される。庄内農民全員のワッパ弁当に相当するくらいの不正を酒田県はしているので、これを取り返すといったことから世に「ワッパー揆」といわれる。