明治7年(1874)

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明治7年18742月24日北海道から鯡魚八万余が酒田へ来る。
2月上清水村の白幡五右衛門が石代納につき嘆願書を代官へ提出し、捕縛され、酒田北寺町の土牢に入れられ、拷問を受ける。
3月鵜川学校を鵜渡川原の山内成善宅に創立する。
3月斎藤墨湖が没する。103歳。墨湖は松山藩の足軽組。姓は斎藤、名は久作。父は江戸定府。画を春木南湖に学び、その画は稚気が多い。鷄を画くに一種獨得の妙があった。淡泊無慾を以て高寿を得るという。しばしば、酒田に来往する。(酒田港誌)
天正寺に天正学校、山椒小路渡辺隼人宅に椒坊学校、下台町不動院に西台学校、寺町安祥寺内に敬楽学舎、本町四丁目に本街学校ができる。公立小学校の始まり。生徒数300名余。教員13名。
4月鵜渡川原の青原寺に鵜渡川原学校を設立し、5月青原学校と改める。(現、亀ヶ崎小学校)
4月手蔵田村に長渕学校・吉田村に向陽学校・宮野内村光岩寺に光岩学校・黒森村に黒森学校・宮野浦村に袖浦学校・浜中村に静波学校・新堀村に止善学校・本楯村に謹成学校がそれぞれ創立される。(県教育史資料・教育史年表)
4月遊摺部村の菅井惣左衛門が菅井学校を設立する。(中平田小学校百周年記念誌)
4月南遊佐村に小学校が創立される。
森藤右衛門が酒田で初めて「出羽新聞」を発行する。まもなく新聞紙条例違反で、発行停止となる。
丸沼地方の最上川改修工事完成。人足16万5千人余。工費6,436円。
4月4日医師で教育者の鍛冶町小松周輔が没する。77歳。周輔は通稱治郎兵衛、鍛冶を業とする。のち江戸に遊び、医術を修め、国に帰って業を開く。覚寿院を借りて40年間、輪講の席を開き、自ら座長となって、後進を指導する。当時、酒田富豪の子弟で教えを受けないものはなかった。鳳山はかつて周輔を称して「老兄読過の書数、我が半ばに及ばざるべしと雖も、記憶力の強き、我が遠く及ばざる所なり」と。周輔また人に語るに、雲照院(稲荷小路稲荷神社)の識力・森文右衛門(四丁目)の周易と本草学、佐藤文哉(台町)の算学には余が常に敬服する所であると。
4月21日夜、大巻風、台町・伝馬町・内匠町・米屋町・八軒町の屋根一円、瓦とも吹き飛ぶ。
6月17日長崎グラバー商会の横浜支店商館員,トーマス・スミス(Thomas Smith)が酒田にて没する。34歳。英国マックルスフィールドの人。日本国郵便蒸気船会社のアカンザ号(Acantha)で6月11日に寄港し、榊原玄辰による診察を受けるも亡くなったもの。海晏寺に埋葬。齊藤千里らにより明治18年同寺境内に高さ四尺、花崗岩の「彼を知る全てに多くの尊敬を受け深く哀惜された」と英文で刻んだ墓碑が建立される。
7月飽海・田川二郡の農民が穀代一件につき、内務省に訴える。
7月金井・本多らが石代会社をつくる。これに酒田三十六人衆の森藤右衛門・玉屋渡辺久右衛門及び新田目村の松本清治・改良派士族大友宗兵衛等が参画している。9月には石代会社を広業社と改める。
7月酒田遊里の茶屋と芸娼妓は次のとおりである。(伊東家文書)
茶屋107軒、うち今町30軒、船場町36軒、新町41軒
娼妓194名、今町62名、船場町75名、新町57名
芸妓33名、今町26名、船場町7名、新町なし 芸娼妓計227名
8月田川郡百姓が穀代一件で諸所に打寄り大騒動となる。
9月酒田県は政府に一揆鎮圧の臨機処分権を願い出て許されると、11日本多允釐ら指導者を一斎検挙して大断圧を加える。農民は酒田県庁襲撃を企てたので、県では後田山開墾士族を総動員して武力による鎮圧をもって臨んだため未然に終る。これより森藤右衛門等による建白、訴訟とかの言論、法廷闘争に戦術転換する。9月4日森藤右衛門が上京し、左院・内務省・司法省・警視庁への建白嘆願運動を活発に展開する。
9月陸軍省で酒田県から徴兵を行う、県下31人。
11月7日勧業寮より、酒田県に英米産菓木試植方を依頼して来る。(余目町史年表)
12月教部大丞三島通庸が酒田県令を兼ねる。これはワッパー揆の鎮圧と鶴岡士族が西郷隆盛に応じて兵をあげる気配があったためという。(酒田町史年表稿)
酒田に赴し時よめる
 君が為め心つくしの薩摩より清川越えて急ぐ旅かな  通庸
菊地寂照が没する。寺の本堂に私塾敬楽学舎を開いて、教育に当った。貧困家庭の子らには、この年4月給食を行った。
江戸旗本の未亡人小川宮子が宮野浦にきて、塾をひらく。宮子は女子教育の先駆者で諸芸に通じ、男装をしていたという。林昌寺境内に碑がある。