元号年 | 年 | 月日 | 事項文 | キーワード |
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明治8年 | 1875 | 1月17日 | ワッパー揆につき、内務・司法・大蔵各省から来庄し、金井・本多・栗林他農民の御吟味が始まる。 | |
| | 1月 | 酒田郵便取扱所を酒田郵便局と改称し、初めて為替事務をとり扱う。 | |
| | 2月15日 | 森藤右衛門が再び上京し、5月5日酒田県の「県官曲庇圧制之訴」を司法省へ起こす。ついで河野広中の勧めで元老院副議長後藤象二郎に会い、その結果、5月に元老院に建白書を出す(後述)。その建白書を報知新聞にのせる。 | |
| | 2月 | 持地院に小学校教員養成所として伝習学校が設けられる。校長は会津の深田康守。 | |
| | 2月 | 泉流寺に泉流学校、今町万蔵院(現光国寺、観音堂)に今坊学校を創立する。 | |
| | 2月 | 肝煎を村長と改め、2月村毎に入札をもって人選する。 | |
| | 3月 | 小学校教師試験を初めて行う。 | |
| | 3月 | 海晏寺に河雲学校、4月本町三丁目二木栄松宅に操松学校(女子学校の始まり)安祥寺脇寺に馨香学校(女子学校の始まり)を創立する。 | |
| | 3月 | 大町村に東郊学校・漆曽根村に漆里学校・関村に関学校を創建する。 | |
| | | 光岩学校を宮内学校と改称、翌年さらに晴光学校と改称する。(南遊佐小学校記念誌) | |
| | | 嶋田学校が創立され、上安田村・上星川村等二十一力村から通学する。(八幡町史資料三) | |
| | | 藤塚に藤塚学校新築、十年に藤波学校と改称する。(西荒瀬小学校百周年記念誌) | |
| | 3月 | 東京の海軍大主計中村致敬から酒田の廻船問屋尾関又兵衛宛に、国立銀行支店を酒田に設置することについて大蔵省の許可を得た。ついては親友の沢原源太郎を酒田へやるから相談願いたい、との手紙がくる。この計画には東京在京の本間耕曹も関係していたらしいが、結局、このときは実現をみなかった。 | |
| | 5月2日 | (現招魂社の所に)酒田中教院が開かれ、神官、僧侶の試験、養成等を行う。のちに神宮教会となる。 | |
| | 5月17日 | 庄内から菅実秀、石川静正、本間光輝ら8人が鹿児島を訪問、二十数日滞在し、西郷隆盛と数回、面会し、7月に戻る。(市史史料篇五) | |
| | 5月28日 | 北海道サッポルドーデンペ開拓手伝として鶴岡士族300名が酒田より蒸気船で出帆する。大長松宮源太夫。3ヵ月で30万坪を開き桑田とする。 | |
| | 5月 | 在京中の森藤右衛門が県官の浮役徴収の不当、学校入学に丁吏・非人を区別すること、新聞を圧迫すること、芸娼妓を解放しないこと、開墾のため農夫を無償で使役すること等の不正について元老院に訴える。 | |
| | 6月4日 | 酒田県管内を邏卒が巡回する。市内巡邏図が市史編さん室にある。 | |
| | 6月 | 諸業税廃止、諸業勝手次第に営業してよいとの布告が出る。 | |
| | 7月1日 | 酒田県が正米税納の法を布達する。(斎藤文書・余目町史年表) | |
| | 7月1日 | 県令三島通庸が鳴鶴学校を海晏寺につくり、英才教育を行う。この学校には酒田・鵜渡川原の各学校より優等生120名を選んで入れる。 | |
| | | 7月2日から降り続いた雨で、7日最上川大洪水となり、家屋及び死人が多く流れ来る。(荘内史年表) | 水害 |
| | 7月27日 | 宮城県士族で箕作麟祥からフランス法律を学んだ清水齋記が鶴岡に法律学舎支校を開業する。清水はのち酒田稲荷小路に住み、明治25年から34年まで町会議員をしているので、当地の自由民権思想に大きな影響を与えたと思われる。 | |
| | 7月 | 三島通庸が正租一俵は4斗8升入の処、4斗2升入に改める旨重ねて達する。(字町文書・余目町史年表) | |
| | 8月13日 | 華道家、白崎五次郎が没する。68歳。五次郎(一に五四郎ともいう。)錦叢軒燕子と号す。秋田町五右衛門の養子。伝馬町の呉服店「菱五」を経営する。挿花の道に精しく、ことに立華に堪能であった。天保年間、華道家元池坊専明より羽州会頭職を命じられ、初めて酒田華道会を設けて振興を図る。楯岡・廻館・本荘にも門人が多い。(酒田港誌) | |
| | 8月 | 酒田県を廃して鶴岡県をおき、庄内三郡を管する。肝煎を廃止し、町用係を戸長の下におく。 | |
| | 8月 | 本街・椒坊・敬楽・河雲の4校を廃して、新たに漸進(船場町運上所)松林(持地院)清風(浄福寺脇寺観法寺)の3校を作る。 | |
| | 8月 | 地租改正となり、大蔵省から測量師がきて郷村を測る。 | |
| | 8月 | 天然痘が大流行し、800余人の死亡者を出す。 | |
| | 10月3日 | 森藤右衛門の建白につき、元老院の権大書記官沼間守一ほか三名が来鶴し、大督寺で裁判を開く。 | |
| | 10月3日 | 本間光美が隠居し、資産を孫の光弥に附し、また一家をあげて暫らく上袋小路の陋居に移住し、ひたすら家運の再興を計る。光輝・光弥を扶けること約40年に及ぶ。光輝が家督相続(七代)する。 | |
| | 10月26日 | 大鳥圭介が石炭山見分のため来酒する。 | |
| | 10月 | 本間光輝の家督に際し、本間耕曹が相続問題に関し、裁判を起こす。 | |
| | 10月 | 酒田町が地租改正に着手し、10年11月終了する。 | |
| | 10月 | 酒田警察署の前身である鶴岡県第三警察出張所酒田第一屯所を片町字新井田の池田方を借り受け設置する。同年中本町四丁目角、上林熊記方(現産業会館)に移転する。 | |
| | 11月8日 | 警察掛を警部掛に改め、邏卒を巡査と改称する。(余目町史年表) | |
| | 11月 | 生徒が三百名の多きに達したので鳴鶴学校を旧亀ヶ崎城内に移す。 | |
| | 12月 | 服部民喞・野附彰常・尾関又兵衛・大泉長治郎・五十嵐伝之丞・本間長三郎・根上善兵衛他9名で、鶴岡県から新井田蔵(一部か)を借りて倉庫業を開く。 | |
| | | 三島県令の発意で、飽海郡小学校創設資本金を町村から募集する。 | |
| | | 本間家の渡口米(小作米)29,878俵。(市史史料篇五) | |
| | | 人力車が大流行する。 | |
| | | 鶴岡士族岩崎親正が御米置場の払い下げを受け、十余戸が移住する。(出羽国風土記) | |
| | | 酒田港の輸出品46、金高57万円余。輸入品90、金高29万円余。(上に同じ) | |
| | | 吾妻屋辰枝が東京から帰り、今町で遊芸の師匠となる。 | |