明治10年(1877)

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明治10年18773月鶴岡・酒田両倉庫の依託米規則を定める。
4月米島村が他村と併合するのを嫌い、分離して米島学校を設置する。(遊佐町史年表)
4月三崎新道開さく工事が始まる。
4月秋田町角に巡査交番所が設置される。
4月東郊学校が大町村から勝保関村永蓮寺に移る。
4月曽根田村の富樫家に誠信学校を建設する。
4月飛島勝浦村に飛島学校、十里塚村に光海学校を創立する。
4月伝習学校を元亀ヶ崎城代屋敷跡に移す。
7月山形県令三島通庸が県内有力者を山形に招いて協議会をつくり、県会と名づける。
8月2日佐藤政養が没する。57歳。政養、通稱与之助、笙溪また李山と号する。鳥海山麓の舛川村に生まれる。34歳で志を立て眞嶋雄之助とともに江戸に出る。本間郡兵衛と交わり、漢学を伊藤鳳山に、蘭学を杉田成卿に学び、勝海舟に従って砲術を習う。海舟が軍艦奉行となると、政養はその副となる。維新後民部省工務省に奉職し、鉄道助に任じ、明治5年、東京横浜間鉄道敷設を監督する。著書に『興地全図』等数種があり、書画彫刻を能くする。吹浦駅頭に高橋剛作の銅像がたっている。
8月鳥海山・月山・湯殿山に女性が初めて参詣する。参詣者男女併せて5千人位。(遊佐町史年表)
10月山形県より管内へ地券証が渡される。
租税が金納となり、新井田倉庫は不用になったので、酒田の回船問屋が共同で回漕会社を設立し、新井田倉庫を借りうけて、米を預かり、米券を発行する。
失職した鵜渡川原足軽授産のため、中瀬の飯島甚太の尽力で鮭漁業権を内町佐竹家から譲りうける。
白崎良弥が初代消防組頭取となる。
最上川の水戸の深さ7尺5寸(2.25メートル)。
この頃指物師が34軒もあり、欅杢の木地呂塗箪笥・桐・黒塗衣裳箪笥・船箪笥・箱枕・箱膳・掛硯箱・針差箱・火鉢等が廻船問屋を通じて北海道・九州・四国・関西・北陸方面に移出される。柳宗悦により酒田は小木・三国とともに船箪笥の三大産地といわれる。38年頃、酒田の箪笥類の技術は頂点に達し、酒田箪笥として知られる。
この頃馬車・人力車・自転車・川蒸気船が流行する。