明治12年(1879)

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明治12年18791月上台町に裁判所の庁舎が竣工する。
1月区務所の名称を廃し、戸長役場とする。酒田には17ヵ所がおかれる。その後、米屋町(上通り)、上中町(中通り)、上小路(下通り)の3ヵ所に統合される。22年まで続く。
2月酒・煙草の切売に課税し、遊女に増税する。
3月府県会規則により初めて山形県会がひらかれる。(議場は山形市の宝憧寺)
4月23日旧藩士金井質直が没する。51歳。源太郎・小一郎・吉平・半之丞・右馬介・成充・義郎。森藤右衛門らを中心とする農民騒動(俗にワッパ事件という)を指導・建白・訴訟を重ねて三島通庸等と争い、一応の勝訴に導く。鶴岡の大督寺に葬られる。
4月遊摺部村の菅井学校が小牧村に移り、翌年最陽学校と改称する。
4月広野新田村の旧郷倉を校舎に広野学校が創設される。(広野小学校百周年記念誌)
4月新堀村に新堀警察分署が設置される。(県警史年表)
4月本町通りの両側に街路樹として竹と木を植える。
4月鳥海山の虎斑竹による細工が始まっている。
6月~7月最上川・赤川が大氾濫。7月4日より10日まで未曽有の大洪水。水かさ21尺(6.3メートル)。酒田で18軒が流される。流域全体では溺死28人、流失家屋439戸。落橋875ヵ所(実小路橋や新井田川架橋等)。河身の破壊・両岸の欠損甚しく、上流より流されてくる土砂のため港が埋まる。水害
6月酒田にヤソ教師がきて布教する。
6月酒田へ初めて電信柱掛ができる。
7月26日飛島よりコレラが移り、大流行。飽海郡内の罹患者、430人。うち死亡者273人。10月30日に至ってようやく治まる。8月大浜に避病院をたてる。病死者を北千松境に葬り、コレラ山と称する。(飽海郡衛生誌)病気
8月村ごとに村会議員を選挙せよとの布達がある。
8月最上川が氾濫すると新井田川に漲溢し、逆流が酒井新田・漆曽根等18力村の耕地を浸すため、山椒小路下に新井田川逆水門を創設する。(酒田港誌)
9月1日本町五丁目に酒田電信分局開局。(五十嵐正之日誌)
10月7日飽海郡役所を本町一丁目六番地北側に新築する。郡制施行の際、山形県一等属貴島宰輔(鹿児島出身)本郡長に任ぜられる。当時、船場町舊運上所を以て、假庁舎にあてる。この日現本間家駐車場の所に洋風3階の庁舎が完成する。敷地940坪。前面27.8メートル、側面9.1メートル、高さ18.6メートル。棟梁小川小太郎。のち本町三丁目南側(現市役所)に移転し、和洋折衷のものをたてる。(酒田港誌)
11月8日いままでの9つの小学校を廃し、洋風3階建の琢成学校(小学校)が秋田町、本町の突き当りに竣工し、この日開校する。敷地907坪、建坪761坪、前面約50メートル、側面31.5メートル。教室32、教室外10室、瓦葺、高さ8丈9尺(27メートル)楼上に大時計があって、時報は数町の彼方まで聞こえたという。琢成の校名は三条実美撰「玉不レ琢不レ成レ器、人不レ学不レ成レ行」によったもの。生徒数千名、教員34名。初代校長筒井明倫。棟梁小川小太郎・大工市渡市兵衛・斎藤知右衛門・佐藤長兵衛・糸木亀太郎等である。竣工式には松方正義大蔵大輔、三島山形県令等が出席する。
11月28日元司法大輔佐々木高行が来酒し、民情を視察し、本間別荘に泊る。
森藤右衛門ほか飽海郡55力村の総代が学制につき不正の件を佐々木高行に訴える。
鳥海時雨郎と五十嵐富蔵が佐々木高行に、酒田港の築港意見を上申する。
成富一郎。教育者、佐賀県の人この年酒田伝習学校の教師となって漢学を教授した。同12年11月琢成小学校内に郡立酒田中学校が設立されると同校一等教諭に任ぜられ、のち琢成小学校長となる。
11月船場町琴平神社遷座式を行う。
12月17日17・18・19日初めて浄福寺で飽海郡会議を開き、郡長と町村連合会長が大論争する。
東田川郡の豪商渡部作左衛門が、県から新井田倉庫の払下げをうけ13年4月から酒田新井田米庫と称し、倉庫業と廻米問屋を営む。彼は亀ケ崎城跡も払下げを受け郭主と称し、威勢を振う。米庫には所々にガス灯をたてる。これにより酒田に初めてブリキ職が起ったという。上日枝神社に宝劔・鞍・御輿等を寄進する。
町村連合会と貴島郡長との間に、中学校資本金の取扱いについて確執を生ずる。
山形県下最初の政治結社「尽性社」がつくられ、森藤右衛門が社長となる。その条例の緒言に「国は人民反射の光りなり・・・・:人已に奮発勉励せんを思わば天賦固有の霊質を尽さずばあるべからず」とある。
酒井調良が袖浦に初めてりんごを植える。庄内りんごの始め。(広岡新田発達の概要)
12年から13年にかけてテュルベン神父の第1回目の庄内地方巡回の時、洗礼者は63名を数える。地区別には鶴岡21名、中野曽根・漆曽根を含めて酒田地区25名・松嶺7名、その他10名となっている。(献堂二〇周年記念誌)
僧奕堂禅師が海晏寺に来て布教する。このとき当地方の曹洞宗僧侶を一人づつ点検する。奕堂は曹洞宗総持寺の貫主。酒田の帰途、病いにかかり大山善宝寺で寂す。同寺に墓がある。(酒田港誌)