明治14年(1881)

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明治14年18812月1日大吹雪、田んぼでは雪玉(俵雪)ころびしこと稀にみるほど多い。
3月海晏寺で町村連合会を開き、中学校問題について、議長手蔵田村菅原斧治郎と郡長貴島とが大論争し、停会する。
4月吉田村から上野曽根・鶴田が分村独立する。
4月横代村に横代学校が設立する。
4月鳥海山論により内務省裁判で、大物忌神社頂上をもって本社とし、吹浦・蕨岡はともに口の宮とし、隔年奉幣とする。
4月尽性社が盛大となり、自由民権を振起する目的で『両羽新報』を出す。森藤右衛門が社長となる。
4月高山林次郎(樗牛)が安祥寺脇寺の正伝寺におり、琢成学校に通う。養父高山久平が飽海郡役所の高官として赴任していたことによる。同年、明治天皇行幸の際、琢成学校で小学生を代表して奉迎文を読んだといわれ、その草案が光丘文庫にあるが、須田古龍は読まなかったという。
6月5日酒田戸長選挙が行われ、高橋直勝が当選する。
6月7日庄内三郡に地籍編纂を令し、丈量帳や絵図を8月限り差出させる。(山形県達)
6月8日政談演説会が開かれ、民権論者馬場辰猪らが来酒し、民権政談及び学術の必要性や国会開設を唱える。
6月10日地質調査のため、農商務省御雇ドイツ人ナウマンが県下巡回につき、便宜を計るべき旨の達しがある。
6月24日官僚渡辺洪基の随行として郵便報知新聞記者であった原敬(後の総理大臣)が来酒。両羽新報社で森藤右衛門に面会しているほか、日和山、郡役所、琢成学校などを視察し、25日に小幡楼で昼食をとり、同楼からの眺望を絶賛している。(「海内周遊日記」(原敬日記第六巻))
6月貴島郡長の不法について郡中が連判し、森藤右衛門に依頼し郡長選挙について県令に訴える。貴島郡長更撰の檄文が飽海郡内に配布される。
6月鶴岡の木部弟美・山田久太郎が両羽新報社に入り、健筆を振う。
7月1日貴島郡長が罷免され、鶴岡士族服部民喞が飽海郡長となる。
7月16日山形県で郡医及び町村医の設置方法を定める。
7月19日コレラが発生し大流行する。飽海郡罹患者494人、うち死亡39人を出す。(飽海郡衛生誌)病気
7月24日海晏寺で戸長選挙が行われ、森藤右衛門が1470餘の多数で当選する。一端、戸長の辞令が下付されたが、無効との達しが郡長よりあり、三島県令あてに町民1200余名が連署して「戸長辞令書引上に付伺」を提出する。
8月13日最上川洪水、天明時代の河道に復する。
8月17日農事篤志、産業熱心家の事蹟詳査方を各村役場に通達する。(余目郷土誌)
8月26日相場師長谷部豊吉が生まれる。琢成小学校を卒業。少年のころから米商加茂屋に奉公する。のち船場町に独立して米穀取引会社大正商会を設立し、投機に成功し巨富を積み、全国に相場師長谷部の名を高くしたが、相場に失敗して没落する。子どもの長谷部慶治は映画脚本家である。
8月服部が罷免され、相良守典が飽海郡長となる。
9月9日小幡楼で戸長選挙が行われ、森藤右衛門が当選するも、相良郡長はこれを認めず、鵜渡川原村戸長の小久保新吉に兼任させる。
9月15日酒田監獄署囲内で2名を斬罪する。
9月25日明治天皇が東北・北海道を巡幸。25日午後6時20分、酒田御着、行在所本町六丁目の渡辺作左衛門宅にお泊りになり、26日福島裁判所酒田支庁と琢成学校においでになる。当時の琢成学校は教員29名(男22、女7)生徒数1105名(男779、女326)。北白川宮能久親王・有栖川宮熾仁親王・参議大隈重信・同大木喬任・同黒田清隆・内務喞松方正義らが供奉する。このとき行在所について本間家別荘・飽海郡役所への等の意見が出てもめたが、渡辺に決まる。渡辺は莫大なお金をかけて改造し、屋上庭園をつくり、最上川に米を満載した自家の船数隻を浮べて天覧に入れる。巡幸に付本間光訓・白崎良彌・森藤右衛門・西野長・白崎彌助に奉迎総取締を命じられる。
9月日和山に公園地を設け、広大な普請をする。
11月1日午後8時50分天満宮より出火、雷小路・十王堂町・桧物町・名古屋小路・米屋町まで100戸斗りを焼く。(咄しの種瓢)火事
本間家が船場町の下蔵倉庫をもって倉庫業を開始し、米券を発行する。(市史史料篇五)
酒田神宮教会所が大神宮御分霊を奉安して新町旧籾蔵地(現、招魂社境内)に社殿を建てる。
飽海郡並びに酒田の有志が相議って寄附を募り、酒田町より新町1番の1、山林五反三畝二十八歩九合六勺(籾蔵跡)の寄附を得て、壮厳な社殿を建築し、神風講社員等に大麻を頒布する。のち神宮奉斎会酒田支部と稱する。同27年10月大震の際、社殿悉く失ったので同29年小規模の社殿を再建したが、維持困難のため、ついに解散する。敷地は、大正10年7月酒田町に還付し、社殿は酒田奉公義会に売却する。今の招魂社殿はこれである。(酒田港誌)
尽性社が急進派の飽海協会と穏健派の飽海農談会に分裂する。飽海協会は自由党系で森藤右衛門が中心となり、庄内の民権運動を指導した。