明治17年(1884)

年号選択
 
元号年月日事項文キーワード
明治17年18841月16日飽海郡私立学事会が創立される。大正13年12月26日財団法人飽海郡学事会と改め、昭和8年4月、文部大臣の認可を得て飽海学事会と改称する。(酒田港誌)
1月下台町に酒田活版所が創業する。
3月琢成学校第一分校(のち浜田小学校)を戸野町に新築する。
3月19日「山形新聞」は「羽陽新報」と合併して「出羽新聞」と改題する。(荘内史年表)
3月鍛冶町に菊池菓子店(花月堂)が創業する。
4月政府が最上川航路の改良を目的とした治水工事の起工を決定する。工費76万4,984円。
5月庄内出身の力士、大関大達が東京回向院で横綱梅ケ谷を破る。
6月8日酒田芝居小屋(米山座か)で3日間、黒川能を興行する。
7月12日日向川大洪水。土手500間余(900メートル余)が切れ、大久保村・塚渕村の田畑は石砂で埋まる。水害
7月酒田第七十二国立銀行は11年創業、資本金16万円、その後損失金97,151円余を生じたため資本金を8万円とし、改革再興を願い出る。頭取門尾平八郎。
7月町村組合をつくり、平均5町村で一役場に整理され、本郡は二十六戸長役場となる。酒田は天正寺町・上中町・上台町の3組合となる。戸長は天正寺町佐藤純常・上中町松森胤保・上台町三矢維顕。
7月米商会所法が制定されたのを機に、従来の米座を酒田米商会所と改める。本間光美の力が大いにあった。のち酒田米穀取引所(秋田町)となる。理事長は加藤景重。(市史史料篇五)
10月洋画家、高橋由一が来酒し、三浦屋に10日間滞在する。
11月4日焼跡に琢成学校を再建し、この日開校式をあげる。
米島村菅原孝胤等が福岡県農学校長に馬耕修行のための耕夫や農馬の拝借願いを出す。(三川町史)
新井田川の湛水排除のため酒井新田豊里の地界に片側3間余(5.4メートル)の野手代を置き、敷幅6間(10.80n)、上幅8間(14.4メートル)の巨溝(豊川)を開き、日向古川に利導し、日本海に朝宗させる。その後、下流の宮海地区に鉄筋コンクリート製のめがね橋をかける。(北港開発の際、発掘される)豊里皇太神社境内に明治44年9月「豊川排水碑」がたてられる。