明治18年(1885)

年号選択
 
元号年月日事項文キーワード
明治18年18852月20日武芸者伊藤弥藤治が没する。61歳。素封家伊藤四郎右衛門の分家。若年のころ鶴岡の剣士服部十郎兵衛に直真影流を学ぶ。天正寺町の自宅の土蔵を改良して道場とし、地元の子弟に武術を指導した。浄福寺に葬られる。
4月25日鰺ヶ沢を出帆、津軽越中守雇船、塩飽船頭久左衛門が大阪への廻米を1480俵、外に運賃米350俵を積み、29日深浦出船、5月1日暮六ツ(午後6時)大風に遇う。2日朝、佐州鷲崎の半里先で碇を失い、水が浸入したので米を捨て、6日六ツ頃本島に着く。濡米250俵を陸揚げする。(飛島誌)
4月勝保関村の東郊学校が土崎村に移る。
5月上野曽根の薬師神社境内に宮大工御獄教訓導本登金重の碑が門弟によってたてられる。
6月10日庄内の士族52戸の一団が酒田港から北海道に渡り、上磯郡木古内村に、新しく村を建設し開墾に従事する。翌年6月16日再び53戸の一団が渡道してこれに合し、鶴岡村と改称、寺院を設け、小学校を建て、北海道に第二の庄内を建設する。(酒田港誌)
6月伝馬町三浦屋に租税検査員派出所がおかれ、酒・醤油・売薬等の検査をする。これが税務署の始まりである。
6月酒田で鉄道開通の企てがある。
8月最上川改修工事を始める。技手石井虎治郎が工事を監督する。
9月16日庄内の自由民権家、紫藤園森藤右衛門が山形で病没する。44歳。藤右衛門は本町三丁目醸造家唐仁屋の次子。ワッパー揆の指導者となり、酒田県の悪政を太政官や元老院等に控訴し、人民の疾苦を救う。四方伝えて今宗五郎と称する。13年、片岡健吉・河野広中らの国会開設運動に参加する。植木枝盛著の『民権自由論』の表紙には日本の代表的自由民権家として、佐倉宗五郎・福沢諭吉・板垣退助とともに森藤右衛門がのっている。
10月琢成学校第二分校(現琢成小学校)を山椒小路に新築し女生徒を入学させる。のち男生徒も入れる。大正2年第二尋常小学校を浜畑町に新築したため、廃校し、校舎を酒田共励会及び青木遊戯園に貸与する。(酒田港誌)
11月21日飽海郡勧業大会長五十嵐多蔵から飽海郡長宛の上申書に、塩水撰種法の事が出ている。同法はこの頃より庄内地方に導入されたものと思われる。(余目町史年表)
出町の家坂徳三郎が自宅で写真館「徳翠軒」を開業する。写真館の元祖である。鶴岡では12年12月に「鶴影軒」が写真所として開業している。その後、浜町池田亀蔵の長男亀太郎が船場町に「池田写真館」を開いた。亀太郎は油絵をよくし、油絵の肖像画を多く残している。酒田人で一番早く写真をとったのは洋学者本間郡兵衛で、安政3年頃、長崎の写真館で撮ったと思われるものが子孫の家に残っている。その次はやはり洋学をやった本間耕曹と思われる。耕曹は明治8、9年頃、東京で洋画家五姓田鶯柳に母と自分の肖像画を描かせている。本間光訓も武士姿の写真を撮っている。一説に尾関又兵衛の娘が酒田で一番早く写真師になったという。
僧福田行誡が来酒し、林昌寺で法話をする。
広野新田村に浄土真宗本願寺派仏照寺が建立される。
酒田に庄内最初の鉄工所である中村鉄工所が秋田町角(元渡辺五兵衛宅跡)につくられる。(荘内経済年表)
上の日枝神社の拝殿を再建する。
三本柳が広野新田村に合併する。(広野のあゆみ)
牧曽根村で大火、24戸を焼失、松影庵も焼失する。
ル・マレシャル神父が酒田に伝道する。その日記に女は老若みな頭は島田髷でモンペをはいている、とある。(献堂二〇周年記念誌)
この年、鵜渡川原の横山作兵衛が下瀬中島に移住し、開墾を始める。