明治19年(1886)

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明治19年18861月8日飽海郡で、播種ならびに虫害予防、および駆除法を布く。(荘内史年表)
1月「酒田商況日報」が創刊される。鐙谷惣太郎。
1月本町三丁目2番地に洋風2階造りの飽海郡会議事堂が完成する。工費1,450円。500~600人を収容する。
4月文渕学校を手蔵田小学校と改称し、最陽学校を合併する。
4月雲照寺の二男、盲人の橘周存が時岡淳徳医師について医学を学び、鍼灸按の営業を開始する。安祥寺境内には門人らが建てた寿碑がある。
5月11日北野直壮が飽海郡長となる。(荘内史年表)
5月本間光美が、上下日枝神社氏子惣代の議決をへて、資本金5千円を寄附し、その利息をもって両日枝神社の祭典費にあてる。
5月酒田営林署ができる。
6月23日本間光訓が庄内三郡下の輸出改良米を取扱う。(余目町史年表)
8月コレラが大流行し、死亡者三百余名を出す。(咄しの種瓢)病気
9月腸チフスが流行する。病気
9月大暴風のため、越後の船高田丸が北海道より新潟に帰航中、勝浦沖で沈没し、死者70人を出す。事故
9月僧北畠道龍が米山座で講演する。道龍は紀州の僧、西本願寺の命により渡欧し、インドに釋迦の遺跡を探って帰朝する。宗教改革論を唱えて成らず。明治40年病んで寂す。(酒田港誌)
10月神代神楽が十年以前仙台のものから蕨岡に伝えられ、この頃所々に大流行する。仙台神楽ともいう。
本間家が新井田倉庫を日本郵船株式会社から買いうけ、下蔵をこれに移し、新井田米庫株式会社をつくり倉庫米をはじめ、一、二等米を預かる。これより回船問屋の倉庫業は振わなくなる。
新潟市越佐汽船株式会社が酒田・新潟間定期航路を始め、渡津丸が就航し、大正9年まで続ける。
戸長役場及び戸口数一覧
天正寺町 町村数22 戸数1,226 人口6,869人
上中町  町村数25 戸数1,297 人口7,084人
上小路  町村数14 戸数1,066 人口5,588人
(戸口数は明治17年1月調)(荘内史要覧)
晩秋に書家日下部鳴鶴が来遊し、瞰海楼小幡に泊る。
山形県で除草用の雁爪使用を見る。(明治二十年勧業報告二十号)(余目町史年表)