明治20年(1887)

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明治20年18871月登記所が所々にできる。
4月東郊学校を土崎小学校に、藤波学校を藤塚小学校に、漆里学校を漆曽根尋常小学校に、誠信学校を曽根田簡易学校に、勤成学校を本楯尋常高等小学校に、晴光学校を宮内尋常高等小学校に、朝頴学校を生石尋常小学校に、止善学校を新堀尋常小学校に、広野学校を広野小学校に、静波学校を浜中尋常小学校にそれぞれ改称する。
5月青沢通・日向升田通はそれまで馬足ようようの処、大改革となり人力車通行になる。
5月琢成学校を酒田尋常高等小学校と改称する。
7月僧北畠道龍が再び来酒し、芝居小屋の米山座や議事堂その他で説教する。聴者日日二千人。
7月28日東京大学矢田部良吉博士一行が鳥海山頂で、チョウカイフスマ・ヒナザクラを採集し新種として発表される。(遊佐町史年表)
8月秋野平治郎が荷物運搬人の休息に供するため、16年以来庄内の各街道筋に荷掛石(休み石)の設置を始め、この年完了する。費用1,070円、石の数971個。
10月16日七ノ丁の十全堂で、教師齊藤宇多が産婆試験を行う。
11月11日本間光泰が没する。47歳。新十郎・信十郎・九十郎・華瓢。本間光章(信十郎)の長男。光泰は本町で酒造業ひさご屋を営み、国学者鈴木重胤の没後その高弟広瀬厳雄の門に入り秀才として知られたが、明治2年11月宗家の意に背いて田川郡平形村(現在の藤島町地内)に移住したため本間家から義絶された。古城跡墓地に埋葬。
12月13日琢成尋常高等小学校が放火のため再び焼ける。このとき十全堂も焼ける。火事
因明学(仏教論理学)の権威者、雲英晃曜が安祥寺に数日泊り、因明学を講ずる。
上内匠町の興業師長崎新吉が下台町に芝居小屋として港座をつくる。当時、東北一の立派な劇場といわれた。棟梁佐藤泰太郎。明治27年の大地震でも倒れず、裁判所に貸す。
本間光美が飽海郡の大地主に呼びかけて、飽海農談会をつくり、有恒会の母胎となる。
本町二丁目に西谷某が初めて印刷所をひらく。
この頃(没年不詳)医師時岡淳徳が没する。安政2年江戸で医学を修業。のち酒田に帰り、上の山に開業。種痘を盛んにすすめる。清河八郎・伊藤鳳山と親交があった。時岡の娘悌・粂の二人は琢成学校の教師で、酒田における女教師のさきがけである。