明治24年(1891)

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明治24年18913月雑誌「花月叢誌」が発行される。編集者、富樫雄一。
4月漆曽根尋常小学校と曽根田簡易学校が統合し、北平田尋常小学校となる。
4月宮内高等小学校と米島学校を統合し、南遊佐高等尋常小学校と改称する。(遊佐町史年表)
4月本町六丁目根上伝兵衛の建物をあてて収税署をおく。
5月13日豪商小山太吉が没する。90歳。直温。船場町で回船問屋を営業、鶴岡の庄内藩用達八木屋茂兵衛と結んで米の商いで巨万の富を積み、千石船3艘を持ち繁盛を極めたという。浄福寺に葬られる。
5月15日伊藤四郎右衛門が浜田に別荘をつくる。庭園は浜畑の名庭師山田市十郎挿遊の作。庭には水田を点景として取り入れており、広大なものである。建物の棟梁は上内匠町奥泉長右衛門・荒瀬町藤治郎。伊藤家退転後は北原直治郎を経て池田亀三郎の所有となり、現在は、清亀園(市有)として広く利用されている。
5月 船場所の須田伝治郎が大阪商船から中古の小型蒸汽船を購入し、海運業を始める。
6月4日第一回郡議会を酒田の飽海郡会議事堂に招集する。(飽海郡会史)
6月14日酒田消防組頭取白崎良弥一随が没する。46歳。一随は五右衛門一誠の子。戊辰の役には半隊長を命じられ、町兵を率いて椿台に転戦する。維新以後、公に尽すかたわら茶道や挿花に親しみ華道家元池坊専正より目代職に任じられる。この日、大浜で火防大演習を行い、馬を駆ってこれを指麾し、終了後、警察署に引上げ、家に帰る途中、本町五丁目で病いのため馬上にたおれる。父祖四代にわたり酒田の火防に尽す。消防組の主唱により、町会の決議を以て、明治44年7月碑を日和山公園朝日山に建てる。公園改造に際し、招魂社の側に移される。(酒田港誌)
7月10日板垣退助・河野広中・龍野周一郎一行が来酒し、森藤右衛門の墓に詣で、藤右衛門の碑をたてるよう勧める。小幡に宿り、翌日議事堂の歓迎会に臨み、米山座で演説する。(酒田港誌)
7月 善光寺の住職久我誓円尼公が来酒し、竜厳寺・林昌寺で説教する。
8月 青木直重が酒田郵便局長となる。
9月酒田水路教導所が設立され、酒田港水路教導仮規則を定める。
飽海郡では農学士志岐守秋と農科大学教授横井時敬の紹介により、福岡の老農伊佐治八郎を乾田馬耕教師として招聘する。伊佐はまず遊佐郷より広める。宮内に乾田記念碑がある。下日枝神社に伊佐の肖像と乾田馬耕農具が懸額として奉納されている。(遊佐町史年表)
この頃から各小学校に御真影がおかれる。
この年、衆議院議員本間耕曹の子、本間光則が実小路で初めて歯科医院を開業する。
飛島法木で30戸を焼く。火事
山形県下大雪となる。
遊佐町西遊佐から始まり、庄内砂丘地一帯で、すいかの栽培が行われる。