明治25年(1892)

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明治25年18921月16日教育功労者野附彰常が没する。68歳。彰常は荒瀬郷小泉組大組頭庄司氏の二男。荒瀬町野附氏の養子となり、七郎右衛門と称す。維新前後三十余年の久しきにわたって、公共事務に尽し、余暇子弟を教授する。米屋町組大庄屋時代の「野附文書」(光丘文庫蔵)は貴重な郷土史料である。森藤右衛門達と尽性社をつくり、自由民権運動に尽す。
4月3日先駆的博物学者で庄内のレオナルド・ダビンチといわれる松森胤保が没する。「両羽博物図譜」59巻その他多くの著書がある。その大部分は光丘文庫に所蔵されている。
4月 土崎小学校と手蔵田小学校が統合して、中平田尋常小学校となる。
5月25日佐藤直中が飽海郡長となる。
6月20日酒田米商会所を秋田町突き当りに新築竣工する。
6月22日教育者宮田角右衛門が没する。75歳。伊七・篁村・嚶。富農の子として八軒町に生まれ、儒学の泰斗吉野金陵の塾に入って漢学を修める。妙法寺に葬られる。
8月26日妙法寺の住職、僧夏静が没する。75歳。北々園と号し、俳諧に長ずる。常世田長翠の流れを汲み、春秋庵をつぐ。日和山公園に明治26年春秋庵翠流社中建立の句碑がある。
 よそごとにときの鐘きく月夜哉夏静
9月19日山形の蜂屋時計店の支店として中町現港屋時計店の所に齊藤米治が蜂屋時計店を開く・眼鏡もいっしょに取扱う。それ以前に山本という人が時計の修理をしていたという。まもなく菅原豊太郎がいまの所で港屋時計店を開く。港屋は時計、めがねのほかに自転車や蓄音機も取り扱う。蓄音機は酒田では最初と思われる。
9月30日伊藤弥治平が第二代町長となる。
9月本間家の新井田米庫株式会社「株主名簿」をつくる。専務取締役上袋小路本間光直以下役員は本間一族で固める。
10月 飛島沖合で、鱈取り漁船が難破し、10人が死亡する。
11月中山英則が第三代町長となる。
11月最上川治水工事の速成を内務大臣に請願する。(酒田港誌)
伯爵副嶋種臣が来遊して本間別荘に宿る。(11日間留まる。犬塚祐吉誌)蒼海また一々学人と号す。本間光輝の請に應じ、県社日枝神社に「授二汝多福一」の大額を書いて納める。本間美術館には「膽大小心」の横額がある。種臣は書家としても一流である。
本間光弥の命で、西野の佐藤多兵衛が板戸地区に20余町を開田し、本間新田と称する。(我等のふるさと新堀)
明治初期に栽培された刈屋地区の梨の栽培面積が5町歩となる。(刈屋梨栽培のあゆみ)
関伊太郎が北光社を創立し、当地方で初めてマッチの製造販売を行う。