明治26年(1893)

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明治26年18931月28日酒田の富裕な商人14人が相馬屋二階で、宮廷の御宴をまねた新年会を催し、不敬罪に問われる。世に「相馬屋事件」として著名。天下の耳目を驚かす。天皇には船場町の大泉長次郎、皇后には相馬屋の娘が扮した。幹事役の大泉長次郎(県会議員)が趣向をこらし宮中御宴風にし過ぎたもので、別に他意はなかった。東京から弁護士大岡育造をよんで、天皇のまねをしたのでなく、おひなさんのまねをしたと弁論し、2月27日、山形地方栽判所酒田支部から「証拠不十分」として免訴放免となった。
3月25日徳行家加茂屋、秋野平治郎が没する。64歳(天保2年3月生)。船場町の商人、のち浜田に移る。暗夜、金を懐にし、窮者の戸隙に投じ人からその行動を知られないようにした。(酒田港誌)
5月 金久酒造が創業する。現東北銘醸㈱。
6月 善導寺が浜町から今町の現在地に移転し、大正3年9月本堂が完成する。
8月4日伏見宮貞愛親王殿下が第四旅団長として最上川を渡り、新井田橋より酒田に御出になる。小幡に宿泊、翌5日、最上郡金山村に向って出発する。
8月9日俳人正岡子規が清川より来酒し、伝馬町角の三浦屋に宿し、今町翠松亭に遊ぶ。
 木槿さく土手の人馬や酒田道(はて知らずの記)
 夕涼み山に茶屋あり松もあり(はて知らずの記、山王山に句碑がある)
 鳥海にかたまる雲や秋日和(句集「寒山落木」所収、山王山に句碑がある)
8月 新法によって株式会社酒田米穀取引所が創立し、付帯事業として倉庫を持つことができるようになり、山居倉庫を設置する。理事長、加藤景重。類焼を防ぐため山居島の一角の鍋のふた村という谷地を約3メートル砂で埋立てし、3.6メートルの丸太を打ちこみ、その上に土台石をおいて、12棟、1,360坪の米蔵を建設した。中は、にがりを入れて60センチメートルのたたきとし、それに3センチメートルにわたり食塩をしいて湿気を防いだ。二重屋根にし、3.6メートルの庇をつけ、1.5メートル間隔として通風をよくし、夏は戸前を開けた。西方には欅41本を植えて、西日や北西風を防ぎ米質の保存に万全を期した。本間家が出資し、酒井家が経営に当った。地方産米の改善に努力し、日本一の名をほしいままにした。
9月3日酒田蚕種検査所を閉鎖する。(上郷村役場通知)
9月20日本間家が「新井田米庫株式会社定款」を制定する。
9月 西郷従道・大岡育造らが国民協会拡張のため来酒し、米山座で演説会をひらき小幡に二泊する。
10月 「宮野浦開墾碑」が建立される。松本十郎撰・酒井調良隷額並書・宮野浦公民館側にある。
11月「皇大神宮祠田碑」が建立される。小室由成撰・加藤古作書。新堀皇大神社境内にある。
12月1日酒田収税署を飽海郡役所内に移す。藤島にもおかれる。(荘内史年表)
衆議院議長星亨が来酒し、港座で政談演説会をひらく。地元代議士鳥海時雨郎と駒林広運も参加する。
酒田港湾説明資料としての「酒田港概図」が作成される。
田川郡小出新田村(現庄内町)の阿部亀治が水稲の新品種「亀の尾」をつくる。その後全国各地に栽培される。(生きた証しに)