明治27年(1894)

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明治27年18942月上日枝神社に松明祭の模様を画いた絵馬が奉納される。
3月有志が酒田から松嶺を経て新庄に至る酒田鉄道の敷設を請願する。
7月1日酒田・加茂音響単信(閉電式)回線(酒田・鶴岡・大山・加茂)が開通する。
7月8日山居の三居稲荷神社の遷座式を行う。(太郎稲荷・禎祥稲荷・山居稲荷)酒井家が山居全部を購入し、倉庫を設立するにあたり、その守護として稲荷神を奉斎する。往時、酒井家の江戸神田橋邸に、太郎稲荷・禎祥稲荷と稱する両社があり、安永元年2月29日、江戸大火で神田橋邸延焼後、柳原邸に移建する。これを文久3年、鶴岡本邸に遷祀した。この二社と従来の山居稲荷神をも合祀し、三居稲荷神社と稱し、新たに社殿を造営する。(酒田港誌)
7月10日船場町出身の相場師早坂豊蔵(二菊)が『荘内本間宗久翁遺書』を出版する。本間宗久は酒田出身の天才的相場師であり、彼があみだした「三昧伝」または「相場三位法」は相場の虎の巻として珍重され、現在に及んでいる。
7月日本郵船会社が船場町に代理店をおく。主任、浜政弘。
8月この頃小山太吉家の別荘が浜畑に完成する。敷地1,200坪、作庭は山田挿遊で、寄暢亭(きちょうてい)という命名は真宗大谷派執事渥美契縁、気ばらし、気のばしの意味である。隣地の本間家別荘が陽なので、これに対し、陰の庭を作ったといわれる。昭和56年本間ゴルフの所有となる。
8月雑誌「袖乃浦集」が発刊される。編集者、相蘇常次郎。
8月酒田鉄道会社が仮免許状を受ける。(荘内史年表)
夏、飽海郡内未曽有の大水害。(飽海郡会史)水害
9月11日榊原鍵吉が没する。65歳。鍵吉は旧幕臣で、剣法が衰えるのを憂い、門弟を卒いて地方を巡回し、盛んに剣術を奨勵する。酒田にもきて港座で撃剣会を開く。酒田でもその門に入るものが多かった。(酒田港誌)
9月田川・飽海両郡をつなぐ目的で26年に着工した旧木製両羽橋が竣工する。最上川では第5番目のもの。このとき中村太助が考案した水中穿孔機が役立った。同橋は高い方杖橋脚で幾何学的な美しさを持っていた。工費12万3,322円。架橋後ここが鶴岡方面への送り迎えの場所となった。
10月22日午後5時37分、最上川河口付近を中心として庄内が大地震に襲われる。庄内三郡の被害甚しく、中でも酒田は最も惨状を極める。酒田の全焼家屋1,747戸、(十全堂も焼ける)倒壊家屋1,558戸、死者162人(うち船場町70人)傷者223人に及ぶ。特に船場町はひどかった。何人かが本町七丁目北角で大瓮にもぐりこみ、蒸し焼きになった話が伝えられている。新井田蔵も焼け落ちる。余震は23日午前8時半まで140回を数えた。数日後、安祥寺や浄福寺の本堂が倒れたときも大きな音がしてびっくりしたという。三河の尼さんこと、徳雲寺住職颯田本真尼も慰問品を持って弟子とともに訪れる。浄福寺に舎利塔がある。瑞相寺(現南高校)に同尼がたてた震災碑がある。この時有志数百名が震災救済義会を創立し、高橋直勝・清水斎記・斎藤千里・本間與吉。須田文太郎の五人を挙げ事務委員とし、義金募集・政府及び議院へ陳情の文書、その他、地震後の救済施策等一切の事務を行う。委員の手で募集した金額二万五百餘円に及ぶ。のち有志相はかり下日枝神社境内に明治33年10月「甲午震災記念碑」を建てる。文学博士西村茂樹篆額、浄福寺住職菊池秀言撰文、巌谷一六の書。(酒田港誌)地震
10月22日第六十七国立銀行酒田支店が類焼する(11月3日まで臨時休業)。(荘内銀行百年史)
本間家が庄内三郡へ震災救助金5千円、白米250石、薪250棚、人夫1344人を寄附する。
10月31日今町160番地の編集局等が類焼したものの、印刷機(荘内活版所)は被害を免れた「荘内新報」(第1091号)が震災後9日ぶりに発行され、一面にて義捐金募集を行う。
12月南遊佐実業補習学校を南遊佐尋常高等小学校内に設立する。(遊佐町史年表)
地方有志が再び酒田・鶴岡間の鉄道敷設を計画し、佐藤雄能に依頼して各種の基礎調査を行う。
今町・船場町から遊女屋をひきあげ、新町に遊郭をつくる。
宮野浦の漁民が初めて北海道へ出稼漁業にゆく。
六つ新田堰堤を旧位置から約18丁上流(現在地)に移設する。
水路教導所を最上川河口右岸に設置し、河口の深浅を測り、船舶出入の教導をする。電話や萬国信号使用の設備がある。(酒田港誌)
荒木幸吉・本間幸四郎等が商工談話会をつくる。
遊佐町高瀬の石川治兵衛が灰に転がる糸枠の軌跡にヒントを得て新式田植框(田型)を創案し、同30年頃から各地に普及し、田植機の発明をみるまで全国で広く用いられる。
農学者横井時敬が来県し稲作講話を行う。(余目町史年表)
天理教飽海宣教所が設けられ、所長渡辺久太郎が布教に当る。大正3年頃には天理教飽海支教会となり、本町七丁目にある。信徒600戸。
この頃、中村禎吉が大工町で中村書店を始める。のち中町に移る。ついで秋田町に青山堂ができる。
戸数3,583戸・人口20,791人。(飽海郡誌)