明治28年(1895)

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明治28年18954月酒田米穀取引所を再築落成する。
5月「乾田記念碑」がたてられる。農商務大臣榎本武揚篆額・横井時敬撰文。宮内橋付近の道路にある。
コレラが大流行する。病気
7月前年10月の震災により休刊していた有恒会機関紙「両羽」が「荘内日報」と改められ、斎藤千里の手によって復刊する。主筆は野附常のほか、和田謙一郎、佐藤良次、相蘇常次郎、本間孝太郎らが執筆する。
9月26日酒田灯台を宮野浦に置き、10月20日から点灯する。従来の常夜灯を廃する。(官報)灯台は最上川河口左岸にあり、木造六角、白色構造にして無等白色。不動百燭光弱の灯火を點ずる。光達距離9マイル。これはわが国で二番目に古いといわれる。(現在日和山公園にあり)大工佐藤泰太郎の作。
10月3日十全堂社長伊東清基が没する。56歳。清基は仙台の人・若いとき江戸に出て、蘭医伊東玄朴に従事し、のち伊東朴栽に従って鶴岡に移る。明治の初年、朴栽が家を酒田に移すと清基も従う。朴栽は家を清基に譲り観音寺に隠棲する。清基がその業を粐ぐ。時に西洋医学はまだ行われず、清基は鋭意その門人を育てる。旧本町七丁目にある十全堂の建築には清基の力が多い。大日本衛生会飽海支会長となり精力を衛生に尽す。コレラ流行に際し、清基は避病院長となり防毒に奔走し、ついに感染して没する。このとき愛人小野定江は死を覚悟して看病に当り、美談として語りつがれる。有志が碑を海晏寺に建てる。(酒田港誌)
10月11日芳泉蘭堂が没する。55歳。本町二丁目の人、幼名晋太郎、通稱高春、号は半山または羽陽山人と稱する。明治維新の際、初めて学而館を天正寺に設立すると、選ばれて教導となる。書画篆刻を能くする。のち裁判官となり、秋田県大曲町で客死する。
10月大谷派本願寺特派使、執事渥美契縁が来酒する。(酒田港誌)
10月日和山下より銚子口に至る導水堤工事を起工し、同36年に竣工する。
10月酒田港航路標識事務所が設立される。(酒田港誌)
10月26日武道家尾形衛門が没する。41歳。景忠。浜町の自宅に武術館を開いた。泉流寺に葬られる。
11月前年の地震で倒壊し郡役所内に移転していた酒田警察署が本町四丁目角に新築される。
12月1日社会事業家斎藤千里が没する。41歳。松山藩の弓術家で日置流の免許皆伝を受けた斎藤亮助の長男。一家をあげてカトリック教徒となる。トーマス・スミスの英文墓碑を海晏寺に建立する。「両羽日日新聞」を発刊、社主となる。大地震のとき漢学者須田古龍とともに震災救済義会を興して難民救済に挺身した。海晏寺に葬られる。
12月30日震災予防調査会により、前年の地震による建物被害報告をまとめた報告書(震災予防調査会報告第7号)が出版される。酒田町における建物被害について精細なスケッチを多数収録している。翌29年5月発行の第9号にも家屋の被害状況が掲載されている。
明治二十七、八年戦役後、信用組合が設立される。代表中村太助。(郷土誌・地)
この頃日清戦争の影響で、酒田の事業界も活況を呈する。
酒田・鶴岡間の鉄道敷設計画が進捗し、大山・加茂・鶴岡・余目・新堀・酒田をつなぐ鉄道会社を創立する計画が成る(荘内史年表)
教育者市橋賢能が没する。42歳。谷神館主人、教育者市橋鍬蔵の長子として鵜渡川原村に生まれる。はじめ学而館で学び北海道に渡る。剣道の達人として知られ、また漢学をよくし、かたわら佐田白茅・高島呑象について易経を修めた。著書『和漢古今格言集』二巻。『日本慷慨家詩選詳解』二巻。『周易詳解』一巻。その他。