明治34年(1901)

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明治34年19011月酒田米穀問屋業組合が設立される。
2月15日「乾田記念碑」がたてられる。酒井忠篤題額・矢口義仙撰・山口彦惣書、矢流川八幡神社。
3月庄内農学校が創立される。(荘内史年表)
3月29日酒田から東京へ米1万3千石を運ぶ羽後丸が酒田港沖で座礁し、海軍の巡洋艦吉野等で曳船する。
4月学制改革に伴い第一、第二分校が独立して、それぞれ酒田第一(校長渡辺年綱)、酒田第二尋常小学校(校長佐藤又七)となる。
4月1日五十嵐三作・服部與惣・竹内丑松の主唱に因り、酒田小学校同窓会の事業として、酒田青年夜学会を開設する。小学校卒業生、もしくは中途退学生を教育し、その品性を高め、学識を補習させる。同40年4月7日閉会する。なお、中学受験準備夜学を尋常高等小学校に設ける。(酒田港誌)
4月新堀郵便受取所が設置される。
5月遊摺部皇大神社境内に「遊摺部開村記念碑」がたてられる。斎藤美澄撰・本間古作書。
6月1日画僧市原円潭が西田川郡淀川寺で寂す。85歳。天正寺町市原平三郎の四男。幼名を祐助という。15、6歳の頃、江戸鍛冶橋狩野家の門に入り画を学ぶ。名を淵潭斎守澄と称し、業をおえて鶴岡に居住する。35歳のとき妻子を捨て発心して大督寺に入り、のち京都に遊び村山半牧・藤本鉄石・冷泉為恭等と交わる。白道子・月山人・浮木叟・菡萏子等の号があり、最も仏画を能くした。(酒田港誌)
8月13日13日から6日間、大正初期に海外不動産投資ファンド投資会社「紐育土地建物」の社長となる岡本米蔵(当時は東京商業学校学生)が来酒し、小幡等訪問したことを翌年に著書「商工界の七十日」に記す。
8月14日閑院宮載仁親王殿下が東北巡回の途次、酒田に御出になり、本間別荘に宿泊される。(上に同じ)
10月琢成尋常高等小学校内に酒田書籍購読会が発足する。会員12名(神尾一直・池田定祥・後藤丞之輔・村田健太郎・堀重治・白井冨尾・阿部清也・村田一朗・寺内等雌・成沢直太郎・松浦孝之助・大戸正貞)。
11月1日浄福寺の本堂が再建竣功する。工事費の7割は本間家が負担する。棟梁菅原藤太。
11月政治家、書家の巌谷一六が来遊し、翠松亭に泊る。
12月29日隣家の火災により酒田新聞社が延焼し、休刊となる。翌年3月24日から発行を再開する。
12月社会事業家、斎藤千里の建碑式を海晏寺で行う。
水難救済所が河口の左岸に設置され、難船の救助に務める。
この年大豊作。