明治35年(1902)

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明治35年19021月飽海郡が学事奨励規程を定める。
1月飽海郡が水産試験場設置を議決して知事に建議する。(荘内史年表)
1月13日僧侶大善勉強が没する。83歳。後年手蔵田村長淵寺の二十二世住職となる。鶴岡公園に「吾人はすべからく現代を超越せざるべからず」の碑と胸像なる。生涯独身で無欲恬淡「庄内の良寛」と評され、鶴岡の隠士松本十郎は勉強を尊敬してその後姿を絵に描き「禅門の雄禅師その人也」と賛をしたという。南遊佐永持寺に葬られる。
2月上田村ほか四力村の伝染病院を下安田に開設する。
3月船場町から柳小路下までの荷揚場石堤が竣工し、さらに下袋小路下から逆水門まで150間(300メートル)の工事をおこす。
4月酒田高等女学校が県立となり、今町(現北新町)に校舎を竣工する。生徒定員400名。
6月19日永見裕(ながみゆたか)が亡くなる。官吏。天保11年福井に生まれる。明治15年から山形県官吏として勤務。明治19年6月から翌20年4月まで酒田琢成学校長をつとめた。
7月4日大石正己が来酒し、十王堂町紅艶楼で開催された有志招待会に臨み、講演をする。(酒田港誌)
7月牧師榊原政雄が伝道所を、内町から本町の現明治天皇行在所跡に移し布教にあたるも、明治38年10月に酒田を去る。
夏、震災予防調査会の委嘱により、第二高等学校教授、理学士、中島欽三が鳥海山を調査する。
8月20日大和田建樹が来酒して、能楽の状況及びその沿革を調査する。(酒田港誌)
8月21日医学博士男爵高木兼寛が飽海郡会議事堂で衛生講話をする。(上に同じ)
8月28日医学博士片山国嘉・同柴山五郎作等が酒田で開いた飽海郡私立衛生会総会にのぞみ講演をする。(上に同じ)
8月コレラ予防のため船舶検疫所をおく。
8月東大教授、星野恒博士が星野文学士とともに、史料採訪のため来酒する。
8月下中町の小林正吉が初めて自動車(5人乗)を輸入し、長坂で試乗する。
8月酒田商業会議所の存廃問題がおこる。
この年4月から8月中旬にかけ低温冷気が続き、凶作となる。
9月本町七丁目(現中町三丁目)に小松活版所が創業する。
9月各県下警察署の改称により、飽海郡警察署を酒田警察署と改める。
9月28日庄内大暴風雨となり被害激甚、皇室より片岡侍従が派遣され救恤金を下賜される。(遊佐町史年表)水害
10月山形県は秋田税務監督局管内に入り、既設の酒田・藤島のほか鶴岡に初めて税務署を置く。(荘内史年表)
11月27日大谷孫七による酒田水陸運輸会社が船場町にて最上川残吃水蒸気船「第一両羽丸」の命名式および進水式を行う。
11月寺町妙法寺境内の砂山を開さくして、祖父山下から外野町に通ずる新道工事を始める。
11月酒田河口同盟会を組織して、河口改修促進のため、港湾調査を進める。明治40年酒田河口期成同盟会と改称し、同43年酒田築港期成同盟会、大正3年酒田治水同盟会、同4年酒田河口改築同盟会、同8年酒田築港同盟会と改める。(酒田港誌)
12月24日文学博士高山林次郎が没する。32歳。樗牛と号す。鶴岡高畑町斎藤親信の次男に生まれ、幼にして養父高山某に従って酒田に移り寺町正伝寺に借宅する。東大文科を卒業し、知名の文士となる。二高教授をへて博文館に入社し、「帝国文学」を編集、のち「太陽」の主幹として活躍する。思想的変遷が激しく、浪漫主義から日本主義をへて晩年はニーチェ主義から日蓮主義へと変った。庄内の青少年に大きな影響を与える。明治34年東京帝国大学講師となる。鶴岡公園に「吾人はすべからく現代を超越せざるべからず」の碑と胸像がたっている。遺志により駿河の龍華寺に葬る。著書は全集となっている。大正11年10月14日、二十周忌記念講演会を飽海郡会議事堂に開く。講師は文学博士姉崎正治(嘲風)・文学士登張信一郎(竹風)の両氏である。(酒田港誌)
飽海郡役所に参事会室21坪を建造する。工費898円50銭。
明治18年8月起工の最上川治水工事が前後17ヵ年、総工費66万3,091円を費して、この年竣工する。
東京銀座分舗木村家(現在の酒田木村屋)が下中町に創業する。
この頃浜中に砂防林が完成する。
廻船問屋他が加藤雪窓筆の山王祭例行列図の大絵馬額を下日枝神社に奉納する。(現存)