元号年 | 年 | 月日 | 事項文 | キーワード |
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明治36年 | 1903 | 1月 | 酒田倉庫株式会社が解散する。 | |
| | 1月 | 小田切山形県内務部長から耕地整理事務の取扱方を達せられる。 | |
| | 1月28日 | 飽海中学校設立協議会を飽海郡会議事堂において開く。(遊佐町史年表) | |
| | 1月 | 山田玄太郎が農学博士の学位を授与される。明治6年本町六丁目山田太右衛門(加賀屋、三十六人衆)の長男に生まれ、札幌農科大学卒業後、盛岡高等農林学校教授となり、のちドイツに留学し、帰朝して鳥取高等農林学校最初の校長に任じられる。その後、札幌農科大学教授。植物病理学の大家。子孫は札幌にすんでいる。(酒田港誌) | |
| | | 教育者池田賓が没する。72歳。浄福寺に葬られる。賓、字は君錫、号は丹川・悌三郎と称する。玄斎の孫、代々庄内藩に仕え、致道館に入り、助教授となる。のち櫛引組代官となる。明治元年旧藩士とともに鹿児島に行って西郷南洲に教えを乞う。帰って本間光輝の招きで本立学校(私立)の子弟を教授し、晩年下日枝神社の祠官をかねる。(酒田港誌) | |
| | 3月 | 本間家が小作人に堆肥小舎の設置をすすめる。 | |
| | 3月6日 | 上中町14番地(柳小路)に天理教飽海布教所ができる。信徒97戸、所長上田みよ江(本町堀助右衛門の二女)。 | |
| | 4月 | 船場町に酒田商業合資会社を設立する。諸物品委託売買・回遭業、重役渡辺民治、主に北海道行の汽船を取扱う。(郷土誌・地) | |
| | 4月 | 宮内省雅楽部の楽人奥好義が酒田高等女学校の音楽教師として来酒し、43年12月までの満7ヵ年在職する。奥は同校の校歌の作曲者。「君ヶ代」「婦人従軍歌」の作曲者として著名である。 | |
| | 4月 | 安祥寺裏畑(現酒田幼稚園)にある小学校女子部の校舎をもって、酒田第三尋常小学校を設立する。初代校長、五十嵐三作。 | |
| | | 酒田郵便電信局(二等)が酒田郵便局と改称する。 | |
| | 4月 | 南遊佐尋常高等小学校が宮内字本楯に新築移転する。(遊佐町史年表) | |
| | 4月 | 「酒田商業日報」を「酒田日報」と改称する。 | |
| | 4月 | 円山卯吉・荒木幸吉が上中町に合資会社円山漆器木工場を創立する。明治42年ごろまで盛んに漆木工を製造する。(郷土誌・地) | |
| | 4月 | 酒田第二尋常小学校を廃し、(生徒は第三尋常小学校(旧女子部)に移し)そのあとに青木遊戯園(幼稚園)ができる。園長、青木マサは酒田に奉職した青木郵便局長の未亡人。夫が大本営のあった広島電信局長として日清戦役に斃れた後、亡夫の遺志により再び娘二人と来酒し、上荒町鍋谷助右衛門等の協力を得て、36年11月に出町の民家を借りて、二十余名の子供をあずかる。この年4月、山椒小路第二尋常小学校跡の一部を借受けて開園し、のち酒田町費の補助を得て経営したが、同44年1月突如として閉園し、あとを池田藤八郎が引継ぎ、現在の酒田幼稚園となる。(酒田港誌) | |
| | 5月3日 | 奥羽六県自転車競争会で酒田の佐藤吉郎が一等賞となる。 | |
| | 6月 | 酒田河口同盟会が、最上川河口改修請願書を内務大臣に出す。 | |
| | 6月 | 田辺重剛・平田富蔵等が庄内物産会社を創立し、鶴岡地方の物産を北海道に移出することを計画する。(荘内経済年表) | |
| | 7月9日 | 東京求道会館主文学士近角常觀が来酒する。日本弘道会飽海支会の招きにより、飽海郡会議事堂に於いて講演会を開く。その後しばしば浄福寺に来て信仰に関する講演をする。(酒田港誌) | |
| | 8月 | 宮野浦・最上川・高野浜・鵜渡川原・酒田河川・西荒瀬の各漁業組合ができる。 | |
| | 8月 | 文学者田山花袋が来酒する。秋田から人力車に乗って羽後の海岸を南下し、酒田に一泊、翌日最上川沿いにさかのぼっていった。(「草枕」羽後の海岸) | |
| | 10月12日 | 漢学者中野香亭が来酒し、21日秋田に向う。 | |
| | | 黒森郵便局が設置される。 | |
| | | 米国のドイツ改革派教会宣教師モール(Jairus Polk Moore 1847-1935)が来酒し、講演する。 | |
| | | 日和山下から銚子口に至る導水工事が完成する。 | |
| | | 内務省による最上川改修工事が満期につき、山形県に移管する。北岸の石堤20間(40メートル)を補足する。(酒田港誌) | 港 |