明治37年(1904)

年号選択
 
元号年月日事項文キーワード
明治37年19041月上日枝神社の社司、郷土史家斎藤美澄が『飽海郡誌』十巻を完成する。
2月政治家阿部孫左衛門が没する。58歳、今吉。新堀村の在村地主阿部彦太郎の次男として生まれ、同村の宗家阿部孫右衛門の跡を継ぐ。衆議院議員に選ばれる。
2月荒木彦助家の米を積んだ全勝丸・奈古浦丸の2商船が酒田を出港し、小樽に向う途中、ロシアの軍艦に襲われ、奈古浦丸は撃沈される。全勝丸は漸く逃れて福山港に退避する。
2月10日日露戦争が始まると、町民は相はかり、軍人遺家族を助け、出征軍人を慰問するなど、日夜後援事務に精励する。役員は佐藤直中・本間光吉・白崎良弥等である。(酒田港誌)
2月14日酒田奉公義会が結成される。日露戦争が始まると、町民は相はかり、軍人遺家族を助け、出征軍人を慰問するなど、日夜後援事務に精励する。役員は佐藤直中・本間光吉・白崎良弥等である。(酒田港誌)
2月19日飽海郡農会が農事試験場の設置をはかり、知事に建議する。(荘内史年表)
2月鶴岡で「荘内新報」が創刊する。(上に同じ)
4月酒田文庫を開設する。明治34年、成沢直太郎は寺内等曜と相談し、酒田書籍購読会を創立する。会員が増加するに随い酒田文庫と改める。40年12月松山の土方恕平の努力で飽海郡会議事堂の一部を借受け、縦覧所を開設する。同42年12月、私立酒田図書館と改称する。その後、大正14年3月28日、光丘文庫が開設されるに当り図書の全部を寄贈し、廃館する。(酒田港誌)
5月鶴岡で「荘内商報」が創刊する。
7月飽海郡鉄道期成同盟が創立する。(遊佐町史年表)
8月18日酒田高等女学校校庭で第1回荘内三郡連合テニス大会が開かれる。
9月15日法華宗管長古谷日新が妙法寺において、日露戦死者追弔会及び戦捷祈祷会を執行し法話をする。
10月酒田町から最上川河口修築を県に建議する。河口の深さ12尺(3.6メートル)を支持する計画である。
11月酒田港防砂堤の築設を始める。長さ985間(1,793メートル)幅30間(54.6メートル)高さ15尺(4.5メートル)の予定である。
11月酒田高等女学校同窓会有煒会が発足する。
12月飽海郡長指宿彦八が南置賜郡長に転じ、後任に最上郡長下政恒が飽海郡長に就任する。(荘内経済年表)
この頃酒田高等女学校でピンポン大会が開かれる。
本間家で上田村の耕地整理地内に特別田をもうけ、坪刈で佳良なものに小作させ、優等成績者を表彰する。
越中の人竹内孝正が漁夫十余人を引連れて来島し、収益の一割を勝浦に納める約束を以てヤリイカの建網を創める。(飛島誌)
雑誌「新荘内」が発刊される。編集者、藤井孝吉。
この頃酒田問屋業組合が設立される。(郷土誌・地)
この頃酒田理髪業組合が設立される。組合長川村吉五郎・副組合長鵜塚惣吉。(上に同じ)
この年、生命保険被保険者数154人・保険金額5万4,100円・海上保険被保険者数540人・保険金額73万7,288円、火災保険被保険者数270人・保険金額23万5,309円。(上に同じ)
郵便貯金預金者、7,042人・金額9,960円。(上に同じ)
銀行予金者、人員不明・金額4万7,233円。(上に同じ)
内国米の輸出量19万2千石・輸出先は東京・北海道・兵庫・馬関(下関)。(郷土誌・地)
この年豊作。