明治38年(1905)

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明治38年19051月 白崎善吉が第二代商業会議所会頭となる。
1月21日僧及賢が川崎市で没する。75歳。天保2年12月24日、飛島村鈴木与兵衛の二男として生まれる。幼にして同地圓福寺に入り、仮名を良観と称し、姓を伊佐または佐伯という。晩年、阿伊宇といった。明治8年西田川郡大泉村井岡寺の住職となり、同10年鶴岡龍覚寺第三十一世の住職となる。同23年来酒し、龍厳寺に住する。老後、川崎大師平間寺に留って事相(実践面)を講議する。当時事相の大家と称される。権少僧正に進み、平間寺に葬られる。(酒田港誌)
2月2日書画の鑑賞会「尚友会」が創立する。須田古龍・石川静軒・加藤雪窓・佐藤北溟・竹内淇州等が発起し、斎藤香韻・佐藤清夢・梅康待龍・市川思無邪・藤井柴軒等が参加する。「尚友帖」7冊は光丘文庫にあり、大正7年10月2日で終る。(上に同じ)
2月28日温海海岸にロシアの帆船が漂着し、酒田の藤塚熊太郎の通訳で、乗組の露人4名を捕虜として山形に護送する。(荘内経済年表)
3月19日奉天撫順占領祝勝会が盛大に行われ、町内を国旗行列、提灯行列が回る。
3月船場町に酒田海運合資会社が創立する。運送業及び曳船業。社長五十嵐伝之亟。はじめ曳船3艘・艀53艘・道船17艘を所有して、海や川の貨物を運送する。当時艀曳船を営業とする会社はここだけ。(郷土誌・地)
4月飽海郡は基本財産規定を設定して各町村小学校の基本財産蓄積造成を奨励する。(荘内三郡教育要覧)
5月18日荘内案内記』発刊、著者、佐藤良次。
6月4日5月28日にロシアのバルチック艦隊を撃破したことを記念し、日本海海戦大勝祝賀会を長坂で行う。
7月3日民権運動家伊藤雄次郎義興が没する。65歳。 鵜渡川原村須藤繁三郎の次男として生まれる。碩儒伊藤鳳山の宗家の跡を継ぐ。明治14年森藤右衛門・鳥海時雨郎とともに酒田で両羽新報を創刊、以来自由民権思想普及のために活躍し、かたわら新潟石油の採掘を企てて失敗し産を失う。鶴岡蓮乗寺に葬られる。
7月12日巌谷修が没する。72歳。修、字は成卿、古梅また一六と号する。江州水口藩士。多才多芸、最も書道に通じ、明治書道大家の第一人者となる。同34年来酒し広く交遊する。酒田の石碑に一六の書いたものが多い。童話作家巌谷小波の父。
8月1日酒田上台町郵便局が下荒町に移転し、酒田荒町郵便局と改称する。
8月最上川が氾濫する。大宮小野寺堤防が決壊し、大宮・大町・遊摺部は陸の孤島と化す。酒田町も人家の床を浸すこと7、80センチという、未曽有の大水害である。水害
7月下旬から8月にかけての低温や霖雨性冷気と日照不足、さらに稲熱病も蔓延して凶作となる。特に晩稲に多くの被害が出る。
10月酒田奉公義会が中の口東端に面積約20坪の凱旋兵士歓迎所を設置し、翌年4月までの間、数十回にわたって凱旋する兵士を出迎える。各町ではあらかじめ奉公義会から連絡を受けた帰郷の日時に町民を集め、町名や兵士名を書いた歓迎旗を立て凱旋兵士を迎えた。10月27日からは奉公義会附属音楽隊を先頭において歓迎する。(酒田新聞S5.9.18)
12月7日酒田奉公義会が郡会議事堂前に10月27日に着工した日露戦争凱旋門(木造 高さ9メートル、幅12.7メートル、奥行き3.6メートル)が竣工する。棟梁は今町の阿部長五郎、塗装の配色は酒田高等女学校図画教諭本間良助によるもの。(酒田新聞S5.9.18)
12月23日前飽海郡長佐藤直中が没する。49歳。酒田町会議員としても教育や勧業施策の充実に奔走して酒田高女の県移管に努力する。酒田三品取引所の理事長となる。上の山に住する。鶴岡本鏡寺に葬られる。
12月合資会社酒田魚産商会が創業する。
下台町の海向寺側に日経上人が日蓮宗道場を創立する。大正12年安房小湊妙蓮寺から日蓮上人と御両親の御宝塔を迎える。昭和27年蓮尚寺となる。
袖浦村漁業組合が設立する。(県史四巻)
広野村と返野辺新田による水害予防のための赤川かんがい排水事業が完成する。(治水の碑)
この頃文学者、遅塚麗水が来酒する。