明治39年(1906)

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明治39年19061月新渡部稲造が農事視察のため来酒する。米穀取引所にも来訪し、加藤理事長と会見し、山居倉庫を視察し米券法を調査する。盛岡藩士、農学博士・法学博士。国際連盟事務次長として外交に力を尽す。昭和8年病んでカナダのヴイクトリアに客死する。72歳。(酒田港誌)
1月荒木彦助が酒田商業会議所の第三代会頭になる。
2月酒田高等女学校の校歌が制定される。作詞桧山友蔵・作曲奥好義。
2月酒田高等女学校同窓会有煒会誌「さざれ石」第1号が発行される。
2月最上川が氷結し氷上を渡る。(余目町史年表)
3月恵比寿神社境内に「中野新田碑」がたてられる。三好廉撰・黒崎馨書。
4月20日招魂社境内にある「表征清偉烈碑」の前で酒田奉公義会主催の戦没者忠魂祭が盛大に挙行された。本町・中町・下内匠町・上内匠町・桜小路をはじめ各町に凱旋門が立てられ、参加者1万人以上により、日和山から市内各町を回るパレードを行い、翌21日は凱旋祝賀会を長坂を会場として行ったほか、夜は提灯行列を行う。鵜渡川原では矢島純吉海軍大佐を迎えて亀ケ崎小学校で凱旋祝賀会を催す。
三十七、八年戦役、酒田出身軍人軍属の戦死病没者
    従軍  戦死  病没  戦死病没者計
陸軍  486人 30人  7人  37人
海軍   25   7   0    7
計   511  37   7   44
備考
病没員数中軍属2名を含む6名は三笠艦殉死、1名は三笠艦救援従軍中負傷死亡。負傷者は陸軍70名。(酒田港誌)
この戦いに酒田からは511名が出征している。
4月27日弁護士長浜藤四郎が没する。59歳。上台町天狗騒動の指導者長浜五郎吉の五男。
5月2日有恒会の創立者、本間光訓・数右衛門が没する。69歳。光訓は光美の弟である。酒井新田天王下に住する。戊辰の役の小隊司令となり、町兵を率いて矢嶋に勇戦する。資性淡泊、時流に卓越し、つねに宗家の内政を補佐し、また外交の衝に当たり、地方公共のため斡旋画策するところが極めて多かった。農聖といわれた本間光勇と、長く酒田の収入役をつとめた本間光三はその子供である。(酒田港誌)
5月20日山王祭礼における酒田名物の雲をつくような高い山車は、翌年には電線が張られるので今年を最後に姿を消すというので、特別大きな15.6メートルのものがつくられ目を見張らせる。上の方は両羽橋からも見えたという。酒田の高い夕テ山は、本間光丘が京都の祇園祭の山鋒巡幸をまねしたものとも思われるが、あるいは古代日本海時代の港にあった巨木文化の望楼的施設か宗教的御柱の名残で、能登の七尾市和倉の「きりこ」と同系統のものかもしれない。
6月3日飽海郡奉公義会主催による日露戦争凱旋祝賀会・招魂祭が長坂と日和山を会場として開催される。
6月雑誌「新希望」が発刊される。編集者、堀三代治。堀は秋田町で青山堂書店を営んでおり、小倉金之助が毎日のようにきていたので、おそらく二人が相談して出したものらしく、一号に小倉も文章をのせていたという。この一号で廃刊となった。
6月20日酒田奉公義会を解散して、酒田共励会を設立する。共励会は酒田奉公義会事業の一部を継承し、軍人遺族と廃兵家族に対し教育部と授産部を施設する。
6月22日飽海郡奉公義会役員に対する町民による慰労会が日和山旧陣屋跡を会場として開催される。
7月21日日露戦後、国民に謝意を表するため軍艦6艘が酒田沖に寄港する。出雲艦には第一艦隊司令長官海軍中将片岡七郎、春日艦には海軍大佐東伏見宮吏口親王、磐手艦には海軍大佐山下源太郎、八雲艦には海軍大佐仙頭武央、浅間艦には海軍大佐小泉菊太郎、日進艦には海軍大佐福井正義が搭乗している。官民の歓迎は盛大を極めた。(酒田港誌)
7月26日飽海郡私立衛生会総会に際し、医学博士石川貞吉・同志賀潔・医学士栗本庸勝等が臨席して医学に関する講演がある。石川博士は東田川郡狩川村養貞の長男、精神病学の大家で著書が多い。文学博士藤井健治郎・医学博士平瀬亨三はその弟であり、狩川の三博士と称される。庸勝は旧幕臣平石某の次男で、大山栗本節安の養子となり、明治20年3月東大医学部卒業後、山形県医学校長となり、また警視庁に入り多年公衆医学に貢献し、昭和8年3月9日没する。69歳。志賀は赤痢菌の発見者である。(上に同じ)
7月牧師三浦鉄造が伝馬町秋田屋旅館の二階に、キリスト教伝道所をつくり布教にあたる。
9月5日日和山公園で大日本武徳会による酒田臨時祭が盛大に行われる。
9月荘内水産株式会社が創立する。(荘内史年表)
10月新町にト酒田製材工場と酒田木材株式会社(社長中村兵五郎・専務北原直治郎、のち北原工場として知られる)が創業する。これより酒田に製材業が大いにおこる。
10月20日酒田町営電気事業の創設を議決する。(荘内経済年表)
10月船場町に両羽汽船株式会社が創立される。運送業、社長は加茂の秋野惇蔵。初め出羽丸及び青森丸の二艘で営業したが、青森丸は時化にあい遭難し、第二出羽丸を新造、これは酒田における汽船新造の初めである。その後明治42、3年頃第二出羽丸も遭難、第一出羽丸とあとで購入の霊山丸の二艘で営業する。(郷土史・地)
11月総合雑誌「木鐸」が発刊される。編集者藤井孝吉。発行者兼印刷者浜町竹内仙吉。大正6年7月まで続く。酒田の文化向上に画期的役割を果す。齊藤美澄・須田古龍・成沢直太郎・荻原重逸等が主に執筆する。特別寄稿に小倉金之助・伊藤吉之助・伊東知也、それに鶴岡の三矢重松の「荘内語」の連載・笹原潮風の「山科閑言」、「経済上より見たる欧州戦乱の影響」等がある。特に笹原のカール・マルクスの「賃金労働及び資本」(現在書名「賃労働と資本」)の翻訳は、日本最初のものであり、極めて高い評価を受けている。(光丘文庫蔵)
飽海郡長、下政恒らが秋田・青森・北海道の勧業視察を行う。
秋田の作家後藤宙外が『波よ嵐よ』の小説を発表する。これは明治30年代、酒田港がさびれてゆくのを憂えてある豪商が単独で防波堤をつくり、酒田港を発展させようと努めたが、工事は失敗して、豪商も落ちぶれる、という内容である。何しろ天明・寛政時分の酒田港は豪華しいもので、出羽・奥州の諸大名の貢米は茲に輻湊して浜倉に山を築き、百貨を吐き、万金を吸寄せ、出船落花と朝風に帆を開き、夕日を乗する入船波頭より繁く押寄せ、東日本第一の互市場で諸需給の関門と称えられ、江戸より北の商権は全く茲に帰して居たのであった。『波よ嵐よ』
給人町より出火し、8軒を焼失する。火事
酒田火災予防組合がつくられる。