明治40年(1907)

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明治40年19071月 船場町に合資会社両羽海陸運送店を設立する。貨物旅客の運送。代表者、八軒町本間六兵衛・同斎藤喜八。最初は無棚舟七、八艘を所有して酒田鶴岡間の貨物を運送。大正3年からは主に陸送を営み、附近の陸送店中、最も多くの荷物を取り扱う。(郷土史・地)
2月 本町一丁目に信成合資会社が設立する。動産・不動産を取得してこれを賃貸する。代表本間光弥。(上に同じ)
3月12日陸軍々医総監男爵松本順が没する。76歳。順は蘭疇と号し、升川村出身佐藤藤佐の子泰然の次男。嘉永3年幕命を以て長崎に遊学し、蘭人について多年医方を学ぶ。のち貴族院議員に勅選される。伯爵林薫はその次弟。(上に同じ)
3月15日古荒新田皇大神社境内に「記念碑」がたてられる。斎藤清澄撰・白崎吉蔵書並隷額。
3月24日事業家中村太助が没する。70歳。 太郎左衛門、先代中村太助の長男として船場町に生まれ、のちにこれを襲名する。はじめ富豪本間家の使用人となったが商才抜群でその信用を得たという。明治2年、32才のとき独立して家業を始め、周防三田尻より多量の塩を仕入れて鉄船で最上川を上り、米沢方面にまで売りさばいて巨万の富を積む。同8年この地で最初といわれる荷車を試作、同18年には庄内で初めての鉄工所を酒田に設けた。同32年に太郎左衛門式石油発動機を発明し、地元動力産業のさきがけとなった。39年ごろには35人の職工を雇傭した。妙法寺に葬られる。
4月下内匠町に土木工事請負合資会社が設立する。重役、伊藤甚作。当時酒田では土木請負の唯一の会社である。(郷土誌・地)
5月9日酒田商業補修学校の開校式を行う。
6月3日酒田高等女学校にブランコ及び遊動円木が設置される。(さざれ石第3号)
7月15日医師須田文栄が没する。78歳。名は敏行、字は子済、号は松涛、玄祐の二男。江戸に出て漢学を伊藤鳳山に、医術を赤堀煕、磯野文鼎に学び、業を卒えて長崎に遊び、研究する。安政5年7月酒田に開業し、かたわら詩学を宜翁に、茶道を釈無等に聞く。明治17年7月選ばれて町会議員となる。家業精励により数回賞与を受ける。海晏寺に墓がある。(酒田港誌)
7月28日早稲田大学々長法学博士高田早苗(後文部大臣となる)法学士青柳篤恒・文学士内ヶ崎作三郎・伊東知也が港座で学術講演会を開く。(酒田港誌)
8月飛島村長久留就敦が、田や宅地以外はすべて官有地となり、雑木などの燃料が自由に刈りとることができず、困っていたことから、山の低いところに植林をし、防風林・魚付林をつくるとともに燃料の確保を考え、政府から林有地としての下げ渡しを受け、この年から植林を始める。大正3年、酒井調良が島にきて、この植林が成長しているのをみて感激し、自ら選文と書をかいて「植林碑」を勝浦と中村の間に建立する。
8月最上川が氾濫する。
9月20日嶋田三郎(後文部大臣・衆議院議長)が港座で「国民の責務」につき演説する。(酒田港誌)
9月郵船会社が西廻り航路を日本西廻汽船商会にゆずる。同商会は10月1日より西廻航路を開始し、代理店を船場町におき、浜商店という。(上に同じ)
10月5日佐田白茅が没する。76歳。明治20年1月に来酒する。教員及び有志数十名が周易と論語の講義をきく。初め本町二丁目本間信三郎の家に会合し、のち袋小路小柴某の家に移る。滞留三ヵ月、大いに後進を指導する。佐藤良次・伊東知也は白茅晩年の門人である。ことに知也が大陸経営を叫んだのは、全く白茅の説を継承したもの。白茅、字は子栗、号は茹斎、旧筑後久留米藩の儒臣。壮時、尊攘の説を唱えて幽閉されること7年。維新後出仕、明治3年自ら請うて朝鮮使節となる。のち大来舎を起こし、明治詩文を編輯し、世に行われる。著述が多い。
10月12日俳人河東碧梧桐が来酒し、小幡瞰海楼に滞在する。 10月24日、盛んな送別宴が開かれて、此地有数の美人も席に侍った。有数の美人であるそうだが、子規子も「名物は婦女の肌」云々と書いた土地としては、やや物足らなかった。美人も震災後、振はぬと見える。(翌日)物売りの女などが白い鉢巻をしてをるのが目につく。随分巾の広い鉢巻であるが、大抵は頭に妙な物を被ってをるので、折烏帽子でも着てをるのかと一寸見には思ふ。ここでは加賀帽子といふさうな。 頭巾にや鉢巻をせし被り物 魚売りは大方女であるが、其の杖で舁いでをる籠はあたり前のやうに四つの紐をつけたものでなくて、枴にぢきにくっつけた妙な体裁である。 仏事の麁末かれこれといふ 飛ぶ蜻蛉けふ入舟の数ありて(三千里)
11月下の日枝神社の随身門が再建される。本間光丘寄進の随身門は、明治27年の震災に倒潰したため本間光輝が再建し、元帥海軍大将東郷平八郎揮毫「至誠通神」の額を掲げる。ちなみに正面の鳥居に掲げる神号の額は、明治9年本間光輝が鶴岡藩士数名とともに鹿児島に西郷隆盛を訪問した時に、揮毫を請うたもの。棟梁は阿部長五郎・菅原藤太で、鎌倉八幡宮の随身門と同型である。釘は一本も用いていないといわれ、ここの鳴龍はすばらしい。瓦の大半は、かつての鶴ヶ岡城の赤瓦(劔かたばみ紋入)が使われており、貴重である。(酒田港誌)
11月18日「両羽実業新聞」創刊。社長鶴岡の発明家斎藤外市。主幹、斎藤真三郎。(上に同じ)
最上川の南岸に制水枠をつくり河口に延長する。(上に同じ)
西廻り定期航路が開かれる。寄港地は、大阪・神戸・尾ノ道・馬関(下関)・堺・敦賀・伏木・直江津・新潟・酒田・土崎・函館・小樽間で、神戸の岡崎汽船株式会社が行い、酒田では浜商店が取扱う。(郷土誌・地)
吉田寅松が川南に用水堰工事に着手し翌年通水、吉田堰と称する。(稲を創った人々)
一部の村で信用組合や購買組合および購買利用組合が創立される。(酒田市制50年)
この年の庄内田地は32,365町歩、収穫高655,476石。(遊佐町史年表)