明治41年(1908)

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明治41年19082月本町六丁目に酒田堀助回漕合資会社が創立する。代表者根上善造。(郷土誌・地)
3月11日北海道天売島(現苫前郡羽幌町)沖合で鱈漁に従事中、大暴風にあい、庄内漁船66隻のうち54隻が転覆し、219人の溺死者を出した。『増毛町史』には、「当町沿岸に漂着せる死体五十余を数う」とある。その後この大遭難に心を痛められた明治天皇は御内帑金(君主の手もとにある金)を下された。その金をもとにして十三年忌にあたる大正9年11月、当時の西荒瀬村長本間光勇が遺族と計って、遭難者の出た高砂・小湊・宮海に碑を建立する。高砂には他に菊池秀言の書になる天売島の「遭難供養碑」がある。
3月片町に酒田織物合資会社が創業する。(郷土誌・地)
5月25日真宗大谷派管長現如の嫡子大谷光演が来酒し、浄福寺で説教する。光演は俳句・書画に長じ号を愚峰または句仏と称する。(酒田港誌)
6月21日俳人南舟が没する。60歳。風蒼庵。吹浦村池田三左衛門の次男。酒田俳諧の宗匠竜厳寺湖南の弟子となり、湖南の没後、宗匠を継ぎ、また竜厳寺住職となる。
7月 上旬稲荷小路に白井為次郎が酒田基督教会をたてる。大正3年より田中三郎が牧師となる。
8月21日新庄酒田間鉄道線路調査のため、測量開始の通知がある。(廿六木文書)
9月奥井新田三所神社に「治水の碑」がたてられる。酒井調良撰文並書。
9月日向村大字升田の酒田町営電気旧第一発電所が創業する。
11月3日天長節のよき日に、酒田に初めて電灯がつく。戸数585戸・灯数2087灯。
11月26日水難救済会長伯爵吉井幸蔵一行が港湾視察のため、加茂を経て来酒する。(酒田港誌)
12月16日酒田電話局が電話の交換を開始する。この日、開通祝賀式を飽海郡会議事堂で行う。磁石式交換機を設置、加入者180名。一番池田藤八郎・二番荒木彦助・三番本間光輝。
12月阿部久精米工場が創業する。
12月21日酒田・鶴岡電話回線(雙信方式)開通。初めての市外回線。
飽海郡地主会がつくられる。
飽海郡西荒瀬村富樫雄太が水稲品種酒井金子を創選する。(余目町史年表)
県営で飛島定期航路を実施する。酒田海運合資会社所有の玄洋丸で航海する。乗客や郵便物を取扱い、年40回で月3回ないし4回の就航。一回航するたびに県より10円、郡より12円の補助金が出る。玄洋丸の汽笛は狼の遠吠えと似ていたので、「狼蒸汽」とよばれて親しまれた。(郷土誌・地)
出町はずれの神明前に日和山下ビヤホール(見晴楼)ができる。そのため神明坂は当時「ビヤホール坂」と呼ばれた。