元号年 | 年 | 月日 | 事項文 | キーワード |
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明治43年 | 1910 | 1月16日 | 飽海郡耕地整理組合が東宮殿下行啓記念として、本間家が中心となり、2町13力村(計画面積8千余町歩、戸数4千、組合員数5,099名。組合長本間光弥)にわたる耕地整理事業を始める。この日琢成小学校体操場で総会が行われ、出席者3,497名の多きに達した。議長は下政恒郡長である。全国でも稀な大区の耕地整理事業はこの日をもって始まった。昭和6年5月6日目的を達し、残務を北水出の有終会に引き継ぐ。 | |
| | 1月20日 | 安田銀行酒田支店が上中町に開店する。(荘内銀行百年史) | |
| | 3月 | 飛島の婦人消防隊が自衛組織として誕生する。婦人火防組の火防がなまって、「かんぽ」とよんだ。男は漁に出るからで、これは全国でも珍しいとされる。(酒田市制50年) | |
| | 4月 | 山居倉庫が東京廻米問屋組合より、倉庫預り米の改善に努め、米質、俵装の進歩が著しいとして、推頌状と銀盃を贈られる。(荘内史年表) | |
| | 5月 | 新庄・酒田間鉄道敷地の実測を始める。 | |
| | 5月 | 青原寺で亀ヶ崎城主志村伊豆守光安の三百年祭を行い、追懐碑の除幕式を行う。大導師は永平寺貫主森田悟由、碑は題額酒井忠篤伯、岡千仞の撰文、須田古龍の書。 | |
| | 7月1日 | 港座において、日活の前身であるM・パテー商会による巡回興行「東京エムパテー活動写真大会」が開かれ、洋画のほかM・パテー社の作品が上映される。「曾我兄弟の仇討」、「柳生御前試合」、「少女の仇討」、「うかれの笛」、「犬の踊」、「二人小僧」 | |
| | 7月17日 | 日本弘道会長伯爵徳川達孝が足立栗園とともに、飽海支会第五回総会に臨席して講演する。(酒田港誌) | |
| | 7月28日 | 酒田青年仏教会がこの日、真宗大学長(現大谷大学)佐々木月樵を招待し、浄福寺で講演会を開く。11月会報を発刊する。編集者普明寺住職鈴木義顕。(上に同じ) | |
| | 11月 | 飽海郡耕地整理組合の揚水機に供給するため、南千日堂前に配電所を新築する。 | |
| | 11月 | 青木遊戯園が閉園する。 | |
| | 12月 | 酒田築港期成同盟会は、委員3名を上京させて、酒田港が商港として政府の選に入るように運動をする。 | 港 |
| | 12月6日 | 浮浪者の就業、細民の救済を目的として酒田慈善授産会設立の申請を行い、翌44年5月、内務省より認可が下り、浄福寺住職菊池秀言が会長となる。 | |
| | 12月11日 | 酒田商業会議所会頭小山太吉が没する。54歳。肴町佐藤善太郎の二男に生まれ、船場町廻船問屋小山太吉の養子となる。明治30年、秋田町に旧荘内銀行を創設して専務取締役となる。同年、商業会議所創立とともに、推されて会頭となり、その後殆んど15年間、会頭職をつとめる。その間、最上川及び河口の改修促進等につき、意見書または建議書をその筋に提出する。町会議員・収入役及び、銀行や会社の重役として功績が多い。古書画に通ずる。(酒田港誌) | |
| | | 酒田河口同盟会を酒田築港期成同盟会と改称する。 | 港 |
| | | 高橋千代蔵が考案した水車で、米島附近の高台の田に灌漑を行う。(日向川史) | |